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バクティの精髄(19)

◎ダーシャ

 ダーシャ・バクティは、自分を神の召使いと見るバクティである。
 神に仕え、神の意思を実践すること、主のすばらしさ・本性・神秘と栄光を広めること、そして自分を至高者の奴隷であると思うことは、ダーシャ・バクティである。
 寺院において奉仕し、寺院を清掃し、神について瞑想し、精神的に神の奴隷として奉仕することも、ダーシャ・バクティである。
 神の献身者、そして神のあらわれである病人、貧しい人、聖者や賢者に奉仕することも、ダーシャ・バクティである。
 聖典や師の言葉を神の指示と考えて、その教えどおりに生きることも、ダーシャ・バクティである。
 神を悟った人と、愛に酔った献身者たちによって構成されるグループに奉仕することも、ダーシャ・バクティである。
 ダーシャ・バクティの目的は、神の恩寵を得て、不死の甘露を得て、永遠に神と共にあることである。

 クリシュナの恩寵を得るために、アルジュナは、召使いと弟子の感情でクリシュナに祈った。

「おお、主よ! 私はあなたの弟子です。私はあなたに帰依いたしました。私に教えをお説きください。」

 バクタのバーヴァは、こうあるべきである。バクタは、彼自身を完全に放棄し、神に明け渡さなければならず、また、いかなる保証も神に要求してはならない。
 アナンヤ・バクティとは、自己を神に完全に差し出すのである。

 ラクシュマナ、ハヌマーン、アンガダなどは、バガヴァッド・バクティにおいてこのダーシャ・バーヴァを実践した。
 ラクシュマナは、ラーマへの最高の愛と、自分を彼の奴隷と見ることに徹していたために、時にはラーマと話しをすることさえできなくなった。
 ハヌマーンは、主への神聖な奉仕の素晴らしい例としてそびえ立っている。彼は、主ラーマへの奉仕だけに生涯を費やしたのだ。
 アンガダは、ラーマにもう去るように言われてからも、ラーマのもとを去りたくなかったために、常に主ラーマに仕え、最もつまらない奉仕でいいから奉仕をさせてほしいと、主ラーマに祈った。

 ラクシュマナ、ハヌマーン、アンガダなどが取り憑かれていたようなバクティを開発するのは、簡単なことではない。そのためには、心は浄化されなければならず、自分の考えや欲望は絶滅されなければならない。そうして初めて献身者は、神への真の愛を持つことができる。
 そのような心の浄化を伴わない神への愛は、世俗性の入り混じったものとなるため、素晴らしい実を結ぶことはないだろう。
 
 完全なる明け渡しこそが、ダーシャ・バクティの理想である。
 完全に明け渡し、主の奴隷や召使いとなることができたならば、神への明け渡しと奉仕を通じて、彼は実際には何も失うことなく、一般的な意味でも特別な意味でも、すべてを得るのである。

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