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ドッキネッショルの寺院で信者たちと共に(5)


【サマーディ後の正しいブラフマジュニャーナの状態――分別判断の思考と執着の捨離】

「あのお方をつかんで、あのお方を通してサマーディに入ったら、分別知はもうなくなる。
 分別知識はいつまであると思うかね? ”多”を感じている間、つまり、彼が宇宙を、形体を持つ生き物たちを、『私』と『お前』を、意識する間である。完全に正しい一つの智慧が生まれたら、黙ってしまう。トライランガ・スワミの場合はそうだった。
 ブラーミンたちが食事をするときの様子を見たことがあるかい? 最初、その場所は大騒ぎだ。しかし胃袋がいっぱいになるにつれて騒ぎは少なくなってくる。最後のコースである食後のヨーグルトや果汁をすする段階になると、ただ、シュプ、シュプという音だけ! 他には音はない。そして次は眠り――サマーディの段階だ。もう何の騒ぎもない。」

(校長やプランクリシュナに向かって)「皆、よくブラフマジュニャーナを云々する。しかし実際には、彼らの心は常にもっと低い事物、家屋敷、金、名誉、および五官の楽しみといったものにかかずらわっている。記念塔(カルカッタのオクタロニ記念碑を指している)のふもとにいる間は、車だの、馬だの、西洋の紳士・淑女たち、いろいろなものを見るだろう。しかし上に昇れば、無限に広がる大空や海を見る。そのときにはもう建物や車や馬や人などはどうでもよくなるんだ。みんな、アリンコみたいに見えるからな!
 ブラフマジュニャーナを得たのちには、世間への執着や、愛欲とお金への渇きはみんな消滅する。みんな静かに停止する。丸太が燃える間は、パチパチ音を立てるし炎を上げる。燃え尽きて灰だけになったときには、音もしないだろう。執着がなくなると渇きもなくなる。最後は平安(シャーンティ)だ。
 神様に近づけば近づくほど、静かで安らかだ。シャーンティ、シャーンティ、シャーンティ。完全なシャーンティ。ガンガーの近くに行くほど涼しくなるだろう。河に飛び込んだら、一段と気持ちよくなる。
 さて、生き物とか世界、そして二十四の宇宙原理、これらは皆、あのお方がいらっしゃるからあるんだよ。あのお方をのけたら何一つ無いんだ。1の後にたくさん0をつければ際限もなく数が増えていく。1を消してしまえば、0には何の意味もあるまい。」

 師はお続けになった。

「ある人々は、ブラフマジュニャーナを得た後、サマーディの後で――いわばそこから降りて来て、”明智の私”や”バクティの私”を保持する。バザールが解散した後にも、親切心から市場にとどまっているようなものだ。ナーラダたちのようにね。あの人たちは世の人々を導くために、”明智の私”を残しておきなすったんだよ。
 ほんのちょっぴりでも愛欲の執着が残っていると、神様はつかめないよ。糸にケバが立っていては針の穴に入らないからね。
 神様をつかまえなすったお人の怒りや欲望は、見かけだけのもの。焼けた縄のようなものだ。縄の形をしているだけ。フーッと吹けば飛び散ってしまうさ!
 心の中に何の執着もなくなれば、あのお方に会える。清浄純粋な心に浮かんでくるのは、ことごとく神の声だ。純粋な心であるところのあるものは純粋なブッディ――さらにそれは純粋真我だよ。なぜなら、神以外に純粋なものは何もないのだから。
 ところで、あのお方をつかんでしまうと、善も悪もなくなるよ。」

 こうおっしゃってから、タクルは音楽神も裸足で逃げ出すような例の美しい声で、ラームプラサードの詩をお歌いになった。

 さあ、カーリー、カンタパル(願いをかなえる樹)の根元に散歩に行こう
 そして四つの果実を摘もう
 ”欲”と”無欲”の二人の妻は
 ”無欲”の方を連れていき
 ”ヴィヴェーカ(識別)”という名の その息子に
 真理の道を 尋ねよう

 タクルは、自室の東南のベランダに出てお座りになった。プランクリシュナはじめ他の信者たちもお供をした。ハズラーもベランダに座っていた。タクルは笑いながら、プランクリシュナにおっしゃった。

「ハズラー(千という意味)は、なかなかどうして大したものだよ。少ない数じゃないもの。もしここに大きなドゥルガー(タクル自身を指す)があるとしたら、ハズラーは小さいドゥルガーさ。」

 みな、大笑いである。

 ナヴァ・クマールという名の男がベランダの入り口のところで立っていたが、信者たちが大勢いるのを見ると、踵を返して出ていった。タクルは、「ありゃ増上慢の見本だね」とおっしゃった。

 時間は(午前)9時半になった。プランクリシュナは拝跪して師に別れを告げた。
 一人の巡礼音楽師が、弦楽器の伴奏でいくつかの詠歌を歌っている。

 とこしえの喜びの国より
 大いなる船は来たれり
 諸人よ いざうち乗りて
 かの岸に わたりゆくべし

 六人の雄々しき戦士
 大船の扉開きて
 マニ宝珠分け与えつつ
 バクタを常に守らん

 別な歌を――

 時は今 屋根ふきかえる時は今
 もうすぐボルシャの雨が降る
 さあ元気を出して気をつけて
 せっせと仕事に励みましょう
 雨の盛りのスラボン月は
 屋根ふく暇もあらばこそ
 屋根のまこもは湿って腐り
 大風吹けば棟吹き飛んで
 大穴が天井に空いてから
 びっくりあんぐり口を開けても
 開いた口はもうふさがりませぬ
 どうにもしようがありませぬ

 また別な歌を――

 いずれの道たどりきて ここの川辺に
 貧しき衣 身にまとい
 ただひたすらに ハリの御名叫ぶ
 
 いずれの道たどりきて わが身と心
 かくなりしものか
 ああわれ知らず ハリの御名を呼ぶ

 タクルが詠歌を聞いておられると、ケダル・チャトジ氏が入って来て拝跪した。彼は役所の制服を着てきた。ゆったりとした上着から、時計と金の鎖がのぞいている。だが、神様の話が始まると、彼の眼はすぐ涙で潤むのである。まことに愛すべき人物だ。ゴーピーのような気持ちの人なのだ。
 ケダルの姿は師の心の中に、シュリー・クリシュナのヴリンダーヴァンのエピソードを思い起こさせた。師は、神への愛に酔ったように立ち上がり、ケダルに語りかけるかのように歌を歌い始められた。

 恋人よ――
 かの森のいと遠きか
 美しき人よ――
 もう私は疲れて、一歩も歩けない

 シュリー・ラーダーの気分でこの歌を歌っておられるうちに、タクルはサマーディになられたようである。彫像のように立ったまま、神聖な歓喜の涙はほおをつたって流れ落ちるに任せている。
 ケダルは平伏した。そして師の御足に手を触れて、彼は賛辞を捧げた。

 われは礼拝し奉る
 心の蓮華の中心 絶対にしてすべてを超越し
 ヴィシュヌとシヴァとブラフマーを学び得る
 ヨーギーの最深の瞑想によって至り得る
 誕生と死と苦しみを消散する
 完全なる神の叡智 存在の本質 すべての世の種子なる
 ブラフマジュニャーナを

 しばらくすると、師は相対界の意識を回復なさった。間もなくケダルは別れを告げてカルカッタの役所に帰った。
 
 正午に、ラムラルが真鍮製の皿に、カーリー・マーへの供物のおさがりを持ってきて、タクルに差し上げた。部屋の中でタクルは南向きに座られ、それを召し上がった。その食べ方はまるで子供のようで、いろいろな種類の食べ物を、全部少しずつ口にお入れになる。
 食事の後、小さいベッドの上で少し休んでおられる。午後三時ごろ、数名のマルワリの信者たちがやって来て、師の部屋に入った。ラカールと校長、その他の信者たちも部屋にいる。
 
マルワリの信者「師よ、どんな方法で修行したらいいのでございますか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「二つやり方がある。一つはジュニャーナの道、もう一つはバクティの道だ。
 真理と非真理を識別すること。
 真理そのもの、そして永遠の真実在は神様だけで、他は皆、すべて幻の、かりそめのものである。魔術師だけが本当にいるのであって、魔法で現れて見えるものは幻影だ。これが識別である。
 識別と放棄。識別(ヴィヴェーカ)は、実在と非実在、真理と非真理をよく考えて識別することだ。離欲(ヴァイラーギャ)というのは、世間のいろんなことや物に対しての離欲の心を養うことだ。人は一挙にそれらを得ることはできない。毎日実践するのだ。最初は、『愛欲とお金』を心で放棄する。それから、神のおぼしめしによって、心と形と両方で放棄することができるようになるのだ。カルカッタの人々には、神のために一切を放棄せよ、と言ってもダメだ。彼らにはまず心で放棄せよと言わなければならない。
 絶え間のない実践によって訓練をするうちに、人は、『愛欲とお金』への執着を捨てることができるようになる。それはギーターが説いていることだ。実践によって、人は心の尋常でない力を獲得する。すると、感覚器官を抑制し、怒りや情欲やそのたぐいのものを支配下に置くことに困難を感じなくなるのだ。たとえば、亀が甲羅の中に手足を引っ込めて、斧で四つ割にされても外に出ないように――。」

マルワリの信者「師よ、二つのやり方があると仰せられましたが、もう一つの道はなんでございますか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「恋い慕う、または信仰の道だ。居ても立っても居られないような気持ちで恋い慕って、ただ、ただ泣く――一人で人知れず、お姿を見せてくださいと頼んで――。

 心を込めて泣いて泣きつけ、心よ。
 そうすればシャーマーはどうしてそっぽを向いていらっしゃれよう。」

マルワリの信者「師よ、形ある神の礼拝とはどういうことでございますか。また、形のない神――何の性質もない神とは、いったいどういうことなのでございますか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「お父さんの写真を見てお父さんを思い出す。同じように、神像を拝み続けていると、実在の姿が見えるようになるんだよ。
 人格神の形はどういうものだか、わかるかな? あふれ出る広い水の中に”泡”が浮かぶ――あの様子だ。無限の宇宙と無限の意識の中から、さまざまの神の姿が一つ、一つと生まれてくるのが見られるのだよ。アヴァターラといわれるものもこれらの一つだ。アヴァターラのリーラーサマーディは、アディヤシャクティーの楽しいゲームだ。
 学問なんか何になる? 恋い慕って呼べば神は得られる。さまざまのことを知る必要などはない。
 アーチャーリヤになる人なら、さまざまのことを知らなければならない。他者を殺すには、剣も盾も必要だ。しかし自分を殺すためなら、針一本か爪切りがあったら間に合うんだよ。
 私は誰であるかを探していけば、人はついに神を見出す。この『私』は肉か、骨か、血か、随か? それとも心か? 頭か? 最後に、自分はこれらのいずれでもないということがわかる。これは、『これではない(ネーティ)、これではない(ネーティ)』だ。真我を手でつかんだり触ったりする方法はない。あのお方は姿も形もないからね。
 とはいうけれども、バクタにとっては、あのお方にはありとあらゆる姿があるし性質もある。魂のこもったシャーマの神像、霊験あらたかな聖地。すべてのものに魂があるんだよ!」

 マルワリから来た信者は、礼拝してお暇を告げた。
 
 夕暮れになった。タクルはガンガーの流れを眺めておられる。部屋にはランプがつき、シュリー・ラーマクリシュナはベッドの上に座ってマーの御名を称えながら、あのお方に思いをはせておられるのだろう。
 やがて、神殿ではアーラティが始まった。堤防の上やパンチャバティのあたりを散歩している人々は、遠くから聞こえてくる甘美な鈴の音色を聞いている。
 おりしも潮が満ちて来て、河の水がチャプチャプと音を立てながら河上にのぼっていく。アーラティの鈴の音とこの水の音とが一緒になって、一層、甘くやさしい響きになっている。こうした中に、至福に満ちたシュリー・ラーマクリシュナは座っていらっしゃるのだ。あたりのすべては甘やかに美しい! そして、お胸の内も甘くやさしい。何もかも、甘く、優しく、美しい!

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