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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(9)

【本文】

⑫他者に智慧を得ることを勧めないことは、魔事である。

 はい、これもこのままですが、あんまり時間がないんで突っ込まないけど、もちろんこれもケースバイケースですけどね、そのような状況、可能性がある人に対して智慧をすすめないことは魔事ですよと。
 はい、次。

【本文】

⑬輪廻を繰り返す人たちを非難することは、魔事である。

 はい、これもおそらくこれは菩薩のことですね。つまりその、これもちょっと簡単に言いますね。ここで何度も言ってるように、皆さんにね、わたしがすすめている理想、または皆さんが持っている理想は、端的にいうと二つあるね。一つは菩薩道。菩薩道っていうのは、慈悲のために、衆生のために、ね、輪廻から出ずに、ひたすら何度も生まれ変わって、自分でできる範囲でだけど、修行し、良い影響を周りに与えながら輪廻で生きていくと。これが一つね。
 で、もう一つは、バクティヨーガ。つまり、あの菩薩道っていうのはどちらかというとかなりまだ自分の意志、さっき言った、「おれは菩薩なんだ」っていう意志が入っているわけだけど、バクティヨーガっていうのは完全にもう神の道具になると。実際はもちろん、同じなんだけどね。段階の問題であって。神の道具として、もちろんつまり「自分はもうただニルヴァ―ナで安らぎたいんです」なんて思わずに、「さあ、神よ」と。「わたしをいかようにも使ってください」と。ね。「いかようにも衆生のための道具としてわたしを使ってください」と。これがバクティヨーガですね。
 ――はい。で、前も言ったけどね、こういう教えを皆さんいつも学んでるから、「いや、それはそうでしょう」と。「そのような菩薩道、あるいはバクティヨーガが素晴らしいのは間違いありません」と皆さん思っているかもしんないけど、この地球上の修行者全員がそう思ってるわけじゃないからね。うん。これは皆さんもこれからいろんな修行者と出会ったらそういう話が出るかもしれない。わたしもそういうタイプの人ともいっぱい会ったけども、つまりその、「え、救済!? そんなのやる必要ありませんよ」と。あるいは「そんなのできませんよ」と。「人間の目的は解脱です」と。ね。そういう人ももちろんいるわけですね。それはまあ段階だったり、あるいはスタイルの違いだったりもするので、別にそれはそれで、干渉する必要はないんだけど。ただそういうその流れもあるっていうことです。なんていうかな、菩薩道とはまったく違う、ただ解脱だけを求める――まあ、仏教ではそれは小乗と言ってるわけだけど。ただまあ、本人たちは別にそれは、自分たちは小乗とは思ってないからね。それが素晴らしい道なんだと思っているからね。まあ、だからそれを前提として考えなきゃいけないんだけど。そのような例えば人たちの場合ですよ、そのような人たちの場合、今言った、衆生のために輪廻を繰り返す人たちを、まあ実際に非難する。で、実際にそういう人はたくさんいます。これは仏教系の人でも、あるいはヒンドゥー系の人でも、わたし、何度か見たことがある。ネットとかでね。つまりその、菩薩道とか、あるいは救済の思想を非常に批判するっていうかな。うん。「それは傲慢である」とか。あるいはその、なんていうかな、「正しくない」と言って、「やるべきことはただ解脱なんだ」って言ってる人たちがよくいるわけですね。まあ、っていうかそれはまあもう菩薩道ではないわけだけども。でもまあ、皆さんの中にも、もしかするとそのようなカルマが――っていうのは過去生においてどういう修行をしてるかっていうのはそれぞれだからね。そういうカルマがあって、そういうその思いが出てくるかもしれない。あるいはまだ、本格的な菩薩道がよく分からずに、そういう思いが出てくるかもしれない。それに対する注意ですね。
 はい、じゃあ次。

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