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シュリー・チャイタニヤの生涯(1)

シュリー・チャイタニヤ・マハープラブの生涯

 「シュリー・チャイタニヤの生涯」は、ジャドゥナート・シルカールの『チャイタニヤの福音』の要約を元に、クリシュナダース・カヴィラージ(1517-1582年)によってまとめられた、最も信憑性の高い書物です。チャイタニヤの同年代の人物であるジャドゥナートはラグナート・ダースの弟子で、プリーに住んでいた時にチャイタニヤの従者を務めていました。クリシュナダース・カヴィラージはサンスクリット語とペルシャ語に長けており、彼は青年期に故郷ブルドワンを離れてヴリンダーヴァンへ向かって放浪し、ヴリンダーヴァンから12マイル離れたラーダークンドに腰を落ち着けました。若い頃からほとんどの作品をサンスクリット語で執筆していましたが、ファンの要望で古典ベンガル語で執筆を始め、彼が他界する一年前の1581年にその最高傑作を完成させました。

 ジャドゥナート・シンカールのこの素晴らしい書物の要約の翻訳に加えて、アムリタバサール・パットリカの有名な編集者であるシシル・クマールゴーシュによって描かれた『主・ガウラーンガ』の要約版からの資料もあり、その中で、チャイタニヤについてのベンガル語の他の書物から抜粋した事実に基づくこの偉大な化身の若年期について、啓蒙的で非常に興味深い記述をしています。

【若年期】

 1486年2月4日の月食の日、シュリー・チャイタニヤ(1486-1533年)は、ナヴァディープのマーヤープル居住区で、聖典に造詣深いパンディットであった父ジャガンナート・ミスラと母親サチの間に生まれました。
 ナヴァディープは現在のカルカッタから北方75マイルほど離れたナディア地区の聖なるガンガーのほとりにあり、15世紀の当時は学問の中心地であり貿易も栄えていた豊かな町でした。ナヴヤ・ニヤーヤと呼ばれる、ミティヤーで誕生した新論理学が、ナヴァディープでも既に導入されていました。それはガンゲーサ(西暦1200年頃)を筆頭にした偉大な学者たちの継承によって発展したものでした。ニヤーヤを学び偉大な研究者やナヴァディープの機関の認可を獲得するために、インド中から学生がナヴァディープに集まりました。このような学問の発展もまた、ナディアの豊かな社会の中で、学生や教授への惜しみない援助によって支えられていました。

 チャイタニヤが世に出現することとなる15世紀に入り、学問の中心地として評判はあるものの、ナヴァディープには霊性の光が欠けていました。ヴィシュヌ派は公の宗教でしたが、一般のパンディットたちは霊的熱意を持っておらず、タントリズムの発展と共に肉食とアルコールの摂取が彼らの生活に浸透していきました。宗教は単なる儀式へと退化していき、宴と軽薄な気晴らしによって時々中断される、辛らつで例証的な論争に、パンディット達はその知的追求を費やしたのでした。このようなパンディットたちの生活の中に、ヴィシュヌ派の重要な教えである「神への信仰心」はありませんでした。

 主の誠実なヴィシュヌ派信者であり、教養のあったアドヴァイタ・アーチャリヤは、このようなバクティの衰退と物質主義的支配を目の当たりにして衝撃を受け、常にクリシュナに祈りを捧げていました。

「おお、主よ! あなた様自らが化身してくださらなければ、衆生はどのように罪償いができるのでしょうか。」

 その祈りに応えるために、チャイタニヤはこの地上に顕現されたといわれています。

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