サラハの「人々のためのドーハー」(8)
二元性を知らない、正しい思考の樹は
三界に広がっていく。
それは慈悲の花と果実を結び、
その名前は「利他行」という。
正しい空性の樹には、
数々の慈悲の行為という花が、たくさん咲いている。
そして無思考の喜びのために、
他者のための果物が、自然に生じる。
芽や花や枝葉なしに、樹を想像することはできないように、
正しい空性の樹に、慈悲が欠如していたならば
それは何でもなくなってしまう。
一粒の種から二つの樹が生え、
唯一つの果物がなる。
このように、区別できないそれらを考える者は、
ニルヴァーナと輪廻から解放される。
欲望に覆われた者が近づいても
果たされていない希望は、逃げ去っていく。
家から投げ出されたボールを追いかけるよりも、
彼はその家自体を捨てなければならない。
輪廻の果物は、衆生の助けにはならないので、
欲望に覆われた者に、それを与えるな。
「私」という概念を捨てるほうがよい。
空性にしがみつき、慈悲を怠る者は、
最高のステージに到達することはない。
しかし慈悲だけを修習する者は、
存在の罠から解放されない。
空と慈悲の両方を修める者は堅固であり、
輪廻とニルヴァーナのどちらにも住することはない。
サラハの「人々のためのドーハー」を終わる。