クンサン・ラマの教え 第一部 第一章「自由と縁を得ることの難しさ」(10)
八つの悪しき境遇
(1)心が五毒に常に支配されているならば、ダルマを適切に修行することはできなくなってしまう。
(2)ちょっとした智性の輝きもなく、非常に愚かであるならば、ダルマに入門しても、一つの教えの意味すら理解できず、ダルマを学んだり瞑想したりすることができない。
(3)もし偽物の指導者の弟子となり、正しくない見解やおこないを教えられると、心が誤った道に導かれ、真のダルマとは調和しなくなってしまう。
(4)ダルマを勉強したいと思っていても、非常に怠惰であって、勤勉さが少しもなければ、いつも怠けて先延ばしにするために、決してダルマを成就することはできない。
(5)無智と悪しきおこないの力が強く、努力しても心の善き特性をはぐくむことがなかなかできない場合もある。それが自分自身の過去のカルマが原因であることを理解できないと、教えへの信頼を失ってしまう。
(6)現世的に誰かの支配下にある者は、ダルマに従いたいと思っていても、修行できない。
(7)食べ物や着る物の欠乏や、現世的な苦しみへの恐れのみからダルマに従おうと思う人もいる。しかしこの場合、ダルマへの深い信がないため、かつての習慣をやめられず、ダルマではないものに従うことになる。
(8)ダルマを騙ることで財産、奉仕や敬意を得ようとする詐欺師もいる。人の前では本物の修行者のふりをするが、心の中では現世のことしか考えていないため、悟りの道から完全に遠ざかってしまう。
以上が、ダルマの修行を続けることを不可能にしてしまう八つの悪しき境遇である。
八つの不適切な性質
(1)世俗の約束、富、楽しみ、子供、親せきなどに強く束縛されている人は、これらのことに多くの労力を費やしてしまい、ダルマを修行する時間が無くなる。
(2)性格がねじ曲がっていて、あまりにも堕落しているために、おこないを改めることができない人もいる。真の精神的指導者でも、このような人を神聖な道に進ませることは難しい。
(3)悪趣や輪廻の悲惨さについて聞いても、現世の苦しみに直面しても、まったく輪廻への嫌悪を感じない人は、輪廻から脱しようと思うことがなく、ダルマにかかわる理由がなくなる。
(4)真のダルマや師に対して全く信がなければ、教えに出会う可能性は閉ざされ、解脱への道に入門することもできない。
(5)他者に害を与えたり、悪しきおこないに喜びを感じ、身口意を制御することができない人は、聖なる性質を欠いているため、ダルマから遠ざかってしまう。
(6)ダルマに対して、犬が草を見るほどの興味も持たない人もいる。ダルマに対して情熱を持たないから、心を成熟させることは決してできない。
(7)ダルマに入門しても、戒や菩提心の誓いを軽薄に考え、破り続けるならば、三悪趣に生まれ変わる。
(8)秘密真言乗に入門しながら、師や兄弟弟子に対するサマヤを破る者は、自分と他者に破滅をもたらし、成就へのあらゆる可能性を破壊してしまう。
以上の八つの不適切な性質によって、ダルマから遠ざかり、悟りの灯は消えてしまう。
今日の堕落した時代に生きる人の中には、ダルマを修行するための自由のないこれら16の要因を注意深く取り除こうとせずに、自分たちのことを、すべての自由と条件を持ったダルマの真の修行者であると思っている者もいる。玉座に座った指導者も、儀式用の傘をかけられたラマも、孤独に山に入った隠者も、これら16の条件に支配されている限り、真の道へと進むことはできない。
自分自身の状態を注意深く調べ、自由と条件における合計34の側面が正しい状態にあるかを、まず確認しなければならない。もしすべてをそなえているとしたら、喜び、それについて何度も何度も考えなければならない。得ることがとても難しい自由と条件を今得ているのだということを思い起こし、無駄にすることなく、何が起きても真のダルマを修行しなければならない。もしいくつかの側面において不備があるのならば、なんとしてでもそれらを正さなければならない。
自由と条件の要素をすべてそなえているか、注意深く常に調べなければならない。調べることを怠り、いずれかの要素に不備が生じてしまったら、ダルマを真に修行する機会を失ってしまうことになる。
旅人がお茶を淹れる場合を想像してみなさい。お茶を淹れるということは、多くの異なる要素、ポット、水、木、火などが必要である。これらのうち、ただ火をつけるということだけをとってみても、火打石、鉄、火口、旅人の手などなしには不可能である。もしこれらのうちたった一つでも欠けてしまえば、その他の必要なものをすべて持っていたとしても全く意味がなくなってしまう。同様に、自由と条件の要素のうち一つでも不備があれば、真のダルマを修行することはできない。
注意深く検討するならば、基本となる八つの自由をすべて得ることはとても難しく、十の条件をすべてそなえるのはさらに難しい、奇跡的なことであるということが理解できるだろう。
人間として生まれた者の中には、完全な感覚器官をそなえて中心地に生まれながら、ダルマに反する生活を送り、勝者仏陀の教えを信じない者もいる。彼らは三つの条件しか備えていない。
同じことが、五つの環境的な条件についてもいえる。仏陀が姿をあらわし、ダルマを説き、教えが現存していたとしても、ダルマに入門しないのであれば、三つの条件しか持っていないことになる。ここで再び注意しなければならないのは、「ダルマに入門する」ということは単に教えを求めることを意味するのではないということである。解脱への道の出発点は、輪廻が無意味であると確信し、輪廻から自由になろうと真に決意することである。大乗の道を旅するための本質は、真の意味で菩提心を持つことである。最低限必要なのは三宝への揺らがぬ信であり、たとえ命に代えてもそれらを捨ててはならない。それらがなければ、単に祈りを唱え、袈裟をまとっているだけでは、ダルマに入門したことにはならない。
このように、すべての自由と条件について知り、自分がそれらを持っているかを注意深く調べることは、極めて重要なのである。