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ガウリー・マーの生涯(4)

 すべての人々を同じカテゴリーの中に入れることはできません。ある人々は在家の生活を送らなければならず、他の人たちは出家生活のために生まれてきました。それぞれが、自身の場所において偉大です。

 ガウリー・マーは遍歴の出家尼僧になることを切望していましたが、一人旅は少女にとっては容易ではありませんでした。
 彼女はチャンスを待ち、彼女の道が示されることを神に祈りました。

 1875年、彼女が18歳のときに、ガウリー・マーはガンガーサーガル(ガンガーとベンガル湾の合流点)への巡礼に、叔父と叔母、そして何人かの近隣の人たちと共に出発しました。

 滞在3日目に、彼女は巡礼者の群集の中に姿を消しました。親戚や近隣の人たちは彼女を探して3日間無駄に過ごした後、カルカッタに戻りました。
 ギリバラはその知らせを聞いて悲しみに打ちひしがれ、病に倒れました。家族は彼女を見つけた者には千ルピーの報酬を与えると公表し、インドのさまざまな聖地に使者を送りました。

 親戚から逃げた後、ガウリー・マーは彼らの動きが観察できる場所として、彼らのテントの近くの茂みの中に身を隠しました。そして彼らが去ったのを見るとすぐに、彼女はヒマーラヤ地方から来た僧と尼僧の集団に加わりました。彼女は、彼女だと分からないように、尼僧のような服を着ました。
 一団は電車、または徒歩による移動でさまざまな聖地を訪れ、最終的にハリドワールに3ヵ月後に到着しました。
 ガウリー・マーはかつて、苦行を実践する苦行者たちの場所であるハリドワールやリシケシについて、彼女の叔父のチャンディから聞いたことがありました。
 今や、ヒマーラヤとガンガーのパノラマのような景色を実際にその目で見て、神の悟りに対する彼女の情熱は、今まで以上に呼び起こされました。

 ガウリー・マーは、リシケシから、デーヴァプラヤーガ、ルドラプラヤーガ、ケダルナート、バドリナートを訪れ、その後ハリドワールに戻りました。
 その後間もなくして彼女は、ヤムノートリー(ヤムナー河の源流)、ガンゴートリー(ガンガーの源流)、ジュワラムクティ、カシミールにあるアマルナートも訪れました。
 彼女は親戚に捕まるのを恐れて、平野には下りて行きませんでした。自分を隠すため、彼女は髪を切り、黄土色の衣を身に着けるか、またはときどきは、長いローブと男性がよく身に着けるようなターバンを巻いていました。彼女はまた自分の肉体に灰や泥を塗りつけることで身体的な美しさを隠そうとし、さらに時には、誰も彼女に近づきたがらないように、わざと狂ったふりをしました。
 彼女はヴィシュヌの像を首にかけて持ち運び、包みの中には、少しの日用品およびカーリーとチャイタニヤの絵、そしてチャンディとシュリーマド・バーガヴァタムの2冊の本を持っていました。
 彼女は滅多に話しませんでしたが、彼女の身元についてしつこく尋ねられたときは、自分は結婚しており、夫と共に暮らしていたのだと言いました。言うまでもないことですが、それは主ヴィシュヌが彼女の夫であるという意味でした。

 この遍歴時代、ガウリー・マーは、例えば断食、沈黙行、瞑想、経典の学習などのさまざまな苦行を実践しました。
 ときどき彼女は、日の出から日没まで、自分のマントラを繰り返しました。
 彼女はしばしば托鉢のために家々を回りましたが、いくらかの場所では、村人が彼女のために食事や住まいを提供するのを買って出てくれました。このようにして3年間、彼女は険しいヒマラヤ地方の聖地を徒歩で旅し、その間、寒さ、飢え、そして他の試練に耐えました。

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