カルマパ八世ミキュー・ドルジェのヴィジョンと祈り
◎トゥースム・キェンパ
わたしが三十二歳の頃、七回目の月の新月の夜のことだった。わたしは、大地と空が、鮮やかな赤、鮮やかな緑、澄んだ青、鮮やかな白の光を発する色と共に旋回する夢を見た。
澄んだ青色の空の真っただ中に、主トゥースム・キェンパ(カルマパ一世)が突然現れた。
彼は、比丘衆の三衣を着て、黒い王冠を被っていた。彼の手は瞑想の姿勢をとっていた。彼の現れは非常に鮮明であった。そして、足は緩く組まれていた。
わたしの心は完全に圧倒され、少しの間、思考が湧かなかった。
それから、思考が再び生起するにつれて、主トゥースム・キェンパは、まだらな色の光の中に消えていった。
言葉で言い表せない虹色の光線が、アムリタの雨と数々の彩色された花々を降らせながら、空を満たした。
わたしは、グル・ラトナへの祈りによって、確実なるものを発達させた。
そして次の日の午後まで、わたしは恍惚から目覚めることはなかった。
わたしは最初、この経験を他者に公表するつもりはなかったが、歓喜で非常に圧倒されていたために、わたしはこの説明と懇願を書き下ろした。
わたしは父を覚えています。わたしは三世のブッダを覚えています。
わたしは父を覚えています。わたしはトゥースム・キェンパを覚えています。
わたしは父を覚えています。わたしはカルマ・カギュを覚えています。
わたしは父を覚えています。わたしは修行の系統という驚くべきものを覚えています。
わたしは遠い遠い昔から、輪廻をあてどなく彷徨ってきました。
主よ、あなたは慈悲を持って、長年にわたってわたしを受け入れてくださいました。
あなたが受け入れてくださったのをよそに、わたしは未だ、迷妄の中で大いに堕落しています。
主よ、一体わたしはどうやってあなたの御名を聞くことができましょうか?
今生、わたしはようやく、この人間の身体を得ました。
わたしは、あなたの教えの門に入りました、主よ。
あなたの完全なる純粋の教えに入りました、主よ。
あなたの正真正銘の教えに入ったというのに、
わたしは、修行の供養をしなかっただけではなく、
あなたの教えを破壊するという悪しきカルマまで積んでしまいました。
物質的なものを誇示するこの野蛮人に、
あなたは、あなたの驚くべき姿を明かしてくださいました。
もう一度、あなたはわたしを受け入れてくださいました。
牛よりもさらに愚かなわたしに対して、
あなたの慈悲が無限であると知ったとき、
圧倒的な切望が、わたしの奥底から生じました。
母がわたしに生を与えてくれた日から今まで、
わたしの為した意味あることは、たった一つしかありませんでした。
これは、私的な努力から生じるのではなく、
あなたの深遠なるブッダの活動から生じるのです。
これは輪廻の対象から解放されているので、
わたしは、このヴィジョンは心を超越した奇跡であると理解しました。
わたしは、それから確信が生じたと理解しました。
もし祈りを捧げるならば、これだけで十分です――
あなたは、祈りを成就させる真のジェツンです。
たとえわたしが苦悩に耐えられないとしても、
そのような切望を持ってあなたに頼ることだけで、
そして、誤った道に向かないことによってだけで、
わたしは、意味ある行為の伝達を得たのです。
わたしはこの伝達を、宇宙のように限りない慈悲を持つジェツン・グルに捧げます。
このようにわたしは祈りを捧げた。
◎サンギェー・ニェンパ
わたしが三十二歳のとき、十一回目の月の十八日目の夜に、わたしは夢を見た。それは、クリアな空の中に、多くのヨーギニーに運ばれた白い絹の御輿に座した尊主シッダ・サンギェー・ニェンパを見たというものだった。
彼の光線と比類なき光輝によって、わたしは気を失った。
少しばかり経った後、わたしは目覚めた。
空に浮かぶ月のまばゆい光によって、山々は深く黒い影を放ち、この暗黒の時代で苦しむ多くの衆生をわたしに思い出させた。
それから、わたしはこのように懇願した。
主は驚くべき素晴らしいものを有している――
わたしが最近のことを考えているときに、
わたしは、主であるあなたが、世界で見つけることが非常に困難である至高なる三宝であることを悟りました。
わたしがあなたに出会う前に、あなたと出会った一切の者は満たされました。
守護者を持たないわれわれは、煩悩という狂気にとりつかれた。
もがき狂うように、われわれは自分自身の生を奪う。
堕ちたらならば、解脱の好機はない。
今これを熟考して、われわれの心は圧倒された。
このように感じて、わたしは、為すべきことに関して道に迷った。
このように、この人けのない渓谷で狂い、
夜を越すことができず、わたしは何度も何度もうめき声を上げる。
わたしは、「死のときは、前兆なしでやってくる」と考える。
非常な恐怖に襲われ、わたしは、たった一瞬であるわたしの人生の残りを、
無意味にしないと決心する。
たとえ真の聖なるダルマがわたしの中に生じなかったとしても、
わたしは、非法なる行為を修習しないだろう。
今生の人間の身体はたった一瞬しか続かないのだから、
迷妄の中にあるわたしの舌が、どうして剃刀の刃の上に塗られた蜂蜜のような魅力的なものを、恐れずに舐めることができようか?
終わりのない生と死は、すっかりわたしを落胆させ、
わたしは、この輪廻という場所から逃れることを、一切のわたしの心と共に切望する。
輪廻を大量殺戮の牢獄として知るならば、
わたしは、どうしてこの生の活動を為すことができようか?
まず最初に、過去の悪業のカルマの成就が生じる。
それからこの条件は、それ自体で継承される。
最後にそれは、無限の苦しみをもたらす。
それらが同時に生じることを知るとき、
わたしはそれらの無意味な行為に悲しみ、
計り知れない慈悲をお持ちの父に呼びかける。
まず第一に、帰依の対象をめったに見つけられないこれらの不幸な弟子たち。
第二に、供養を受けるが、未だ強く苦しんでいるそれらの師たち。
最後に、彼らは共に、愛と憎しみを築き上げている。
彼らのすべてが共に河に身を投げるならば、
マーラの王でさえも、深く失望するだろう。
わたしは全く力の欠片もない。
「わたしは何をすべきか?」「何が最良か?」ということが心の中で渦巻く。
彼らの王国の中には、人間たちの幸福はない。
動物から虫に至るまでの一切の生き物は死ぬだろう。
この一切を見、聞くことは、地獄のような苦悩である。
すべてのものは、常に失われ、破壊されている。
そして一切の行為は、苦難に満ち、むなしい。
今、終わりのない絶望がわたしの中に湧き上がる。
今、たとえ神聖なるダルマがわたしの中に生じなかったとしても、
わたしは、この生の自滅的な活動を修習しないだろう。
このようにわたしは祈りを捧げた。
◎ジェツン・ミラレーパ
わたしが三十三歳のとき、三回目の月の十五日目に、わたしは、虹色の雲だらけの圧倒的な様相の、繁茂した山腹の夢を見た。
流れる雲の間には、馬車の車輪ほどの大きさのさまざまな色の花があった。
花の真っ只中に、わたしは、ヨーギーの主ミラレーパの、ときに胴部分、ときに下半身、そしてときに顔面を垣間見た。
とりわけわたしは、他のものよりもさらに黒い、非常に黒い光の本質を持つ、彼のたなびく髪の毛を見た。
このヴィジョンは、傍観し難かった。
そのとき、わたしの信仰心が非常に強くなり、わたしの心は突然止まった。
そしてわたしは、信仰心がより一層増大されて目覚め、こう祈りを捧げた。
主よ、アカニシタの完全に純粋なる領域で、
六番目のブッダ、ダルマカーヤのヴァジュラダラとして、
あなたは、十番目のブーミに顕現されました。
信仰心なく、愚かな歩く屍であるわれわれの前に、
あなたは、ヨーギーの主・偉大なるレーパとして現れてくださいました。
主よ、計り知れない慈愛を持って、どうか、われわれを今、受け入れてください。
わたしが信仰に足を踏み入れていなかったが故に、
ジェツンの揺らめくヴィジョンは、虹のように消えていきました。
いまだに、彼の言葉の計り知れなく心地よい音が、わたしの耳に残っています。
このほんのわずかな痕跡から、わたしを圧倒した深遠なる光輝が生じました。
わたしの心は、どうしようもなくうっとりさせられましたが、
わたしの信仰心が口先だけで同意しただけだったように、
驚くべき自信は生じませんでした。
三世のブッダの御力によって、
あなた、父レーパは、衆生の守護者であるニルマーナカーヤなのです。
あなたの人生の驚くべき偉業に、
わずかな帰依と信が生じました。
その完全に純粋なる一致の力によって、
眠りの困惑でけがれたヴィジョンの中に、
思考と言葉を超越した歓喜とインスピレーションが生じました。
――それは、わたしがかつて見たこともない御方、ジェツンでした。
誰からもこれを説明されることなく、認識は自然に生じました。
そのときわたしは、ジェツンに心奪われてしまいました。
尊き宝であるわたしの心は、ただあなただけで満ちました。
あなたは、野蛮人であるわたしを調御し、
破滅的な世俗的性向をダルマの道に導くのに精通しております。
わたしの平凡で世俗的な行い等、
それらの行為が、わたしの人生を空虚に、無駄にしました。
わたしは今や、それらの世俗的な行いにもはや努力しなくなっただけではなく、
そのような欲望は、夢の中にも生起しなくなりました。
ジェツンよ、これは、あなたの慈愛ゆえなのです。
わたしが八つの世俗的なダルマによる障害をわずかさえも蓄積せず、
わたしがわたしの心を生のままで食べられますように。
わたしが自と他に災害を引き起こす悪しき行為によってけがされませんように。
そして、わたしの貧しさと卑しさが滅されますように。
父ジェツン・レーパよ、あなたの祝福をお与えください。
このようにわたしは祈りを捧げた。
◎リンジェレーパ
わたしが三十四歳のとき、九回目の月の満月の日に、わたしはチンプーという渓谷でリトリート修行を行い、熱心に菩提心の瞑想をしていた。
その夜、わたしは夢の中で、非常に広大で巨大な山の斜面のたくさんの美しい花が生えた林の中に、言葉では言い表せない愛らしい乙女たちがたくさんいるヴィジョンを見た。
彼女たちの真っ只中で、一万の太陽の光より強く輝く身体を持ったヨーギーの主ジェツン・リンジェレーパが、一瞬光を発した。
そのとき、熱烈な信仰心が、宇宙の終わりの火のように、燃え上がった。
それから、わたしは目覚め、こう祈りを捧げた。
ヤン・イェー!
わたしが熟考し、吟味したとき、わたしは今、貴重な人間の身体を得ているのだと悟った。
わたしが思索し、検討したとき、わたしは真のジェツンと出会ったのだと悟った。
もしわたしが熱心に修行し、悪行を放棄するならば、
聖なるダルマ以外の関心事はない。
今、帰依の対象の慈愛は再び生じました。
今、わたしは再び、
至高なる帰依処、カルマパ、主トゥースム・キェンパに懇願します。
無思考なるあなたの心の智慧で、わたしを祝福してください。
ニェモの渓谷のさらに深い場所で、
信者あるいは修行僧たちは、
堅い野原を耕し、土製の家や建物を建てるという
絶えず続く骨折りな仕事によって苦しんでいる。
「氷河の女」の前の丘陵地帯で、
高地のテントに住む信者と修行僧たちは、
子牛と羊を世話しながら、貧窮に陥り、狂乱してしまった。
彼らは暮らしの手段を見失うという絶えない恐怖に苦しんでいる。
中央の地方には、
黄色の正方形の法衣を着た、頭髪を剃った男たちが住んでいる。
食物と生活を手に入れる場所を探すのだが、
究極と永遠のゴールは彼らには生じない。
無頓着に、彼らは空っぽの渓谷を彷徨う。
そのような状況を見て、計り知れない慈悲がわたしに生じた。
この強力な慈悲が生じたとき、
わたしは、帰依や守護者がなく、
苦しみ、貧窮に陥り、世話するもののない老母のことを考えた。
そして、計り知れない苦悩が、わたしの心に生じた。
そのとき、大いなる慈愛をお持ちの主、
父なる主と三宝を、わたしは切望と共に思い起こした。
彼を思い起こし、わたしは休むことなく、懇願をした。
そのような熱心な懇願をした後、わたしは、この経験を大げさに扱いすぎたのではないかと懸念した。
それ故にわたしは、わたしの一切の心と共に、空虚な人けのない渓谷にとどまりたいと思う。
一切のこの従者たち、この一万の弟子たちの集会は、
派閥闘争し、自分たちの官僚制度を設け、
ずっと絶え間なく、十悪を増大させ続ける。
それらが広がるにつれて、老母の幸福は破壊される。
圧倒されて、わたしは、信奉者と召使への執着を断った。
信奉者、召使、そして弟子はなく、
自己の身口意だけがある。
広大で、青く、高く聳え立つ空の中に舞い上がるガルーダのように、
わたしは心から、大いなる幸福の歓喜を感じる。
富や財産を集める者たちは、
決して満足できず、盗み、奪い、争う。
三悪趣の他に、
彼らに行く場所はどこにもない。
一見、必要で欠くことのできないように思える富に、
「これはわたしのものだ」と言い、とらわれるべきではない。
たとえ素晴らしきスメール山のように大きな如意宝珠が、
ある者の前に積み重ねられたとしても、
もしその者が、それらに心からとらわれていないならば、
どのようにして、大煩悩の強欲が生じることができるであろうか?
彼は、完全にすべてのものを追放し、放棄すべきだ。
自分自身に注意せず、
空想を追いかけ、揺れ動く人は、
岩石の断崖のふちで、
パタパタと飛ぶ蝶を追いかける不注意な子供のようだ。
彼は、十分な幸福を得ることなく、
ただ人生の喪失を得る。
わずかにかわいらしい体つきや顔に、
彼は、平常心のコントロールを失う。
快い、あるいは不快な言葉に、
強烈な愛着と害心が生まれる。
人々は非常に了見が狭いので、危険なシチュエーションの中で、
もしその狂人たちがなにかの楽しみを見つけるならば、
彼らは、自分自身の人生について気に掛けもしない。
わたしは、彼らに起こるであろうことに不安になる。
今の経験に大した楽しみはなく、
未来において彼らは、解脱することなく絶えない苦しみを経験しなくてはならない。
そのために、絶大な放棄がわたしの中に生じた。
これが生じたとき、それらの愚かな人々の行為は、
わたしの身口意をとりこにしなくなった。
三つの門のダルマは実行可能となり、善根は増大した。
それらが増大したとき、三宝の慈愛は得られた。
さあ、このわたしの人生の残りについては、それがどんなに短かったとしても、
わたしは、とるにたらない怠惰に時間を無駄にはしないだろう。
自らの責任を取るべきときが来た。
非常に大きな名声でさえ、
百年も続かない。
わたしは、わたしの奥深くで、それらを無益であると確信しているのだから、
わたしは、たった一瞬のために、単なる肩書きにしがみつかない。
この輪廻という領域の中の、存在の頂点から、
最も低いアヴィーチ大地獄に至るまで、
すべての者は苦しみを経験している。
そしてわたしは、それらの中に素晴らしいものなどは何も目に入らない。
優れた、並の、そして、劣った、わたし自身と他者、
この最も低い状態にある彼らの一切に対して、わたしは哀れみを感じる。
隠し立てした偽りの行動で、
あたかも重要な行為を為しているようにプライドを持ち、
人間の人生は、余暇の中で休息できない。
たとえ誰かが、それらに熱心に没頭するとしても、
それは、不注意な子供の遊びのようだ。
その者はどうして、それらが実を結ぶと思えるのだろうか?
手に負えない弟子たちを集めることに大成功するならば、
自と他、双方の永続的なゴールは、
完全に壊滅される。
その者はどうして、これと正当的なものを混同するのだろうか?
好意的な態度やお世辞を要求することによって、
他者からの幸福を期待することは、
苦悩を燃え立たせる因となる。
高い地位に向かうことは、
徳をすり減らし、大いなる障害となる。
もしある者が、リトリートに一人で住するならば、
悪行は自然に止む。
したがって、無駄話を好む一切の友、
そして、彼らに近づきたいという欲求への執着――
この切望と欲求は、遠くへ引き離されるべきだ。
このように、人生は、寂静な心と共に導かれるべきなのだ。
ある者は施物に感謝する必要がなく、
他の人々が「あなたは非常に純粋にこの聖なるダルマを修行していますね」
と称賛するのを聞く必要もない。
誰もいない地で、
岩肌の上にいる小さな鳥のように、
彼は、召使も永住の地も持たない。
心底から、活動を放棄すべきだ。
それらを放棄したならば、その者は、カギュの祝福を受ける。
もし彼が、休むことなく懇願し続けるならば、
それは成就に他ならない。
わたしが持つ信仰心の力の一切は、
すべてたった一つの力に集中する。
輪廻の三界の中で、習慣的な見解は、
健康、富、追随者、そして名声に従って進む。
どうか、わたし自身と他者の存在の中の、この見解に終止符を打ってください。
このようにわたしは祈りを捧げた。
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