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ふと思い出したこと

 ふと思い出したこと。

 子供のころの経験で、よくこういうことがあった――正確な実際の実例はちょっと忘れてしまったので、あくまでもこれはフィクションの例であるが――例えばこの季節に川で泳ぐとたいてい風邪をひくという観念がある。しかしどうしても今日は泳ぎたくて、友達との約束もあって、風邪をひくのがわかっていながら避けられないと感じている。しかし何らかの急な事情で、川で泳ぐことなく家に帰った――しかし次の日風邪をひいた笑
 こういうことが、小さなことも含めてよくあり、そのときに思ったのは、例えばこの例の場合なら、もし急な事情がなくそのまま川で泳いでいたら、当然、「風邪をひいたのは川で泳いだせいだ」と思い、「この季節に川でおよぐと風邪をひく」という観念がより強くなっただろうということ。
 そしてこの例の場合、少し寒い季節に川で泳ぐ→風邪をひく、という運命はあらかじめ決められていたんじゃないかということ。しかし何らかの理由で「川で泳ぐ」というプロセスは外されたが、川で泳ごうが泳ぐまいが風邪をひくのは決まっていたんじゃないかということ。
 こういうことをよく考えていた笑 

 これはその後、修行を始めてから知ったバクティヨーガの教えにもつながっていく。つまり一切をなさっているのは神であるということだ。我々は機械に過ぎない。しかし、小説家が小説を書くのに使っているペンが自我意識を持ち「俺が書いている」と勘違いするように、我々は我々の人生を自分の意志で動かしていると勘違いしている。だから表面的な因果関係のレッテルを物事に貼り、「これはこうしたからこうなったんだ」と評論家のような後付けの理論で人生をわかったような気になっている。しかしそれらはすべてただの後付けだ。

 もちろん、正しい意志、強い意志を持って生きることは大事なことだ。しかしそれは方法論として、「道」として大事なのであって、実際の真理はまた別なのだ。

 もう一つ、これはもっと大きくなってヨーガや仏教の修行を始めてからのことだが、たとえばある発言をしようとしたら、他の人に話の腰を折られた。そこでちょっと不満が出たが、また次のチャンスにその発言をした。そうしたらそのほうがその発言をするタイミングとしてはベターで、よい結果が出た。
 これによって、「ああ、あのとき話の腰を折られたことは結果的に良いことであった」と感じた。
 いや、それどころか……あまりにもそのタイミングの良さが劇的で、何らかの力を感じざるを得ずにゾッとすることもよくあった。
 そしてこのようなわかりやすいパターンのときはこういうことに気づくことができるが、実際は気づかないけれどもすべてはそのように回っているのではないだろうか。つまり神かどうかは別にして何らかの力がベストなタイミングで様々な干渉を自分の人生にしてくる。それは自分の観念では不満だったり悪いことのように思えたりすることもあるが、実際は自分にその全体像を見抜くだけの智慧がないだけで、すべては神の愛によりベストな方向に完璧に動かされているのではないか。

 このようなことも昔、漠然と考えていた。

 そしてこれもその後、バクティヨーガの教えを学び、深めていくことによって、それらの気づきはすべてつながっていった。

 この話もまた角度を変えれば、前述の「一切をなさっているのは神お一人」という真理にもつながっていく。

 すべては自分の意志とは関係なく完璧に動いていく。
 我々は「自分がやっているんだ」という後付けの納得をその上に載せる。
 だからその観念と現象のギャップが生じたときに苦しむ。
 一切が神のご意思。一枚の葉っぱが風で揺れることさえ――という真理を体得したならば、不動なる安らぎと完全な自由が訪れる。

 しかしそれを体得するためには、矛盾するようだが、正しく強い意志による努力が必要なのである。正しく強い意志による努力を徹底することで、意志や努力の本当の意味、行為(カルマ)や現象の本当の意味が、やっとわかるのだ。

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