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「解説『母なる神』」第六回(3)

 はい、じゃあ次。『「神の聖なる力」が働いてくださったり、「覚醒した真理の天使」や「曖昧と欺瞞を相手に戦う内なる戦士」や「神の忠実なしもべ」などが手をさしのべてくださるためには、喜んでその助けの手の中に入る「力強い従順」が、こちらの側に求められるのである』と。
 はい、これはなんかオーロビンドの独特の言い回しで面白いね。ま、ここでこれ以上オーロビンドが言及してないので、実際のここで出てくるひとつのワードの深い意味っていうのはここで言及されていないけども――まあこれは実際には、フィーリング的な意味と、それからもうちょっと現実的な意味が混ざってると思います。
 「神の聖なる力」あるいは「覚醒した真理の天使」――あるいは「曖昧と欺瞞を相手に戦う内なる戦士」――あるいは「神の忠実なしもべ」。ここで言ってる「フィーリング的な」っていうのは、なんか形があるわけじゃなくて、実際にそのような祝福が降りて自分の中にそのような――なんていうかな、例えば「内なる戦士」とかそうですけども――そのような要素が備わるっていうのが一つね。
 で、もう一つはそうじゃなくて実際に「神の忠実なしもべ」や、あるいは「覚醒した真理の天使」と表現されるような存在ね――実際そのような、それは菩薩かもしれない。まあ、あるいは西洋的にいえば本当に天使かもしれない。あるいはデーヴァ、神々かもしれないけども、そういった存在が、われわれの霊的あるいは精神的な世界において、われわれにこう手を差し伸べてくれる。
 この手を差し伸べてくれるっていうのは、そうですね、もちろんわれわれに霊的な目があれば――マンガみたいな感じでね、本当にそういう神が現われて、「さあ頑張れ。光のイニシエーション!」ってバーって与えてくれたりとか(笑)、あるいはわれわれをぐってつかんでね、ガーって引き上げてくれたりとか、そういうヴィジョンも見るかもしれない。でもそれは、まあ霊的な世界では実際そういうことが行なわれるわけですけども、現実世界においては何が行なわれるかっていうと――あのね、もちろんね、皆さんが望むことはこういうことだと思うんだね、皆さんが望んでるのは、「あ、神の祝福きましたね」「パッ!」――いきなり変身(笑)。ガーっていきなり変身。これを望んでると思うけども――実際にはこれもあります。これもあるんだけども、ただ多くの場合は、そんな虫のいい話ではない。じゃなくて、バーッて神が与えてくれてハッて変身するんだけど、変身のための手続きっていうか(笑)、ステップを踏まなきゃいけないんですね。このステップがまさに、多くの場合は試練です。うん。皆さんの人生に試練がやってきます。で、それを試練だと気づく場合と気づかない場合があるんだけど、でもどちらにしろ、さっきの信仰深い男の話みたいに、すべては神の愛だと受け入れて乗り越えなきゃいけない。で、この乗り越える作業が、皆さんの変身の作業なんだね。
 でもここで書いてるように、「さしのべてくださるためには、喜んでその助けの手の中に入る『力強い従順』が、こちらの側に求められるのである」って書いてるように、われわれにその準備ができていないと、そもそも、なんていうか契約じゃないですけども、それが成り立たない。まあこの間もちょっと言ったように、チョギャム・トゥルンパの言葉を借りれば、まさに「麻酔なき手術」ってやつですね。あるいは前に勉強会とかでよく言ってた話でいうと、「まな板の上の鯉」と。ね(笑)。「まな板の上の鯉」。つまり神に対して、あるいは師に対して、「さあ、わたしは分かりました」と。まあまさにこないだも言ったギリシュみたいな話ですね。つまり、「もうあなたにすべておまかせいたします」と。わたしの代理人の権限、つまりわたしが進化するためにどういうふうにしてどういうふうに耐えなきゃいけないか、全部権限をお与えします、と。「もうあなたにまかせました」と。「わたしは何も文句言いません」と。「好きなようにしてください」――これってさまさに「力強い従順」でしょ? 弱かったらこんなことできない。
 つまりこれは「すべてまかせた」っていうのは、つまり普通だったら――まあ例えば医療でいったらね、患者が医者に――まあ医者嫌いな人だったら、一個一個聞いてイエス・ノーを確認すると。「次何やるんですか? え、その治療? うーん。それなんで必要なんですかね?」「これこれで必要? でもちょっと止めときます」と。「痛そうだから」。ね(笑)。こういう感じで――「え? その治療? あ、その治療いいですよ」と。「その治療は? え? 喉に薬つけるだけ? それならやりましょう」。こういう感じで(笑)、取捨選択する。これが言ってみればエゴを土台とした修行。じゃなくて今言った話では、全託と。全託っていうのは、「お医者さん、あなたを信じます」と。「もうわたしは何も聞きません。聞かないし、拒否しません。好きなようにしてください」と。それがさっき言ったような麻酔なしの手術であろうとも、あるいは――ちょっと変な話を言えばですよ、失敗しようが構いませんと。全託します。全託したら、バッと目覚めたら内臓全部なくなってたとかね(笑)。構いませんと。つまりその良し悪しの基準すらも全託してるんだね。何が自分にとってオッケーで何が自分にとって不幸なのかさえも。それはもう全託した境地ですね。これはなかなか普通はできない。
 だから何度も言うけども、本当に力強い心と、それから神に対する完全なる信が必要なんだね。で、その思いで明け渡すと。つまり、「まな板の上の鯉」のように、「さあ、好きなようにしてください」と。
 ここで言ってるのはもちろんね――皆さん分かると思うけど、別に苦しみを望んでるんじゃないんですよ。苦行じゃないんですよ、これは。苦行の場合は逆に苦しみを望むよね。「さあどんとやってください!」と。「もっと傷つけてください!」と(笑)。ね。これではない(笑)。つまりおまかせなんです。喜びだろうが苦しみだろうがおまかせです。「あなたが全部分かってますから」と。「わたしが一番早く進化して神の道具となる、あるいは幸せになる道っていうのはあなたしか分からない」と。「だからおまかせします」と、この態度だね。これができて初めて神は、「良し!」という感じで祝福を降ろす。で、さっき言ったような、実際にその人が進化するようなかたちで、この世が動き出すわけですね。
 はい。だからそれを逆にいうと、そこまでの信がない、あるいはそこまでのまだ心の強さがない、あるいはそこまでの明け渡しができていない場合は当然――なんていうかな、それに応じたものしか動かない。でもこの間も言ったように、その発願あるいはそのときの勢いがすごくても、そのあと心が準備ができていなかったりすると、あとで苦しむだけだから。だからしっかりと発願をすると同時に、自分が現実的にどんな神の試練が来ても、あるいはどんな自分のカルマの浄化が来ても、喜んで、あるいは神への愛を一パーセントも失わずに喜んで進んでいけるくらいの――もう一回言うよ――「信」だけではなくて「強さ」も必要なんだね。うん。
 だからいろいろリアルに考えてみるといいかもしれない。例えばT君が「すべては先生の愛です。何されても愛は一パーセントも変わりません!」とか言っててね、で、わたしが例えばT君の頭をボーンと殴ったと。これくらいなら大丈夫かもしれない。「信は消えません」と。でもエスカレートしていったらどうなる? 例えばわたしが高橋君の耳をナイフで切り落としたとする。もう超痛くて(笑)。ちょっと「クソ!」って出るかもしれない(笑)。ね。それでも「変わりません」とか言ってたら、今度は足を切り落とすかもしれない。ね。腕を切り落とすかもしれない。そんなことでももし大丈夫だとしたら、今度はもしプライドが高かったとしたら、みんなの前で馬鹿にするかもしれない。みんなの前でもう本当に一番恥ずかしいこと言われたりとか、あるいは――まあミラレーパもやられたように、例えばだけど、「やあ、カイラスで一番修行進んでない最悪の弟子はT君だよね」とか言って(笑)、徹底的にプライドをぐちゃぐちゃにされるとか。プライドに引っかかってる場合そこで「うっ」てくるよね。つまり何をやられても――なんていうかな、苦しいけど、あるいは不信も出るけど耐えます、じゃないんです。まあ苦しいのはしょうがないんだけど――不信が全然出ないんです。あるいは疑念が全然出ないと。
 ここでいう「疑念が出ない」っていうのは、何度も言うけども――全部神の愛だと。全部神の祝福であると。ただ自分は馬鹿だから、無智だから分かってないだけであって――っていう全託の意識が何があっても消えないという状況が、これは百パーセント理想です。でも現実的に言えば多分みんな駄目でしょう。みんな駄目だからこそ、今からというか、日々の生活、日々の修行でそれを鍛えていかなきゃいけない。……なかなか厳しい話だね。うん。
 だからさっきの――一番最初に戻るけども、「活力なき受動性」――つまり一般的な普通の多くの人が思っているような信仰や宗教の世界と、本当の信仰というか本当の意味での明け渡す世界っていうのはこれだけ雲泥の差があるんだね。うん。「え?」っていう感じでしょ、普通だったら。それくらいの、なんていうか、まあ勇者の道っていうかな、この道はね。

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