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「革靴」

【本文】

 もしも世界から貧困を実際に取り除くことが「布施の完成」だとするならば、現在世界が貧困である以上、過去の救済者たちは「布施の完成」を成就していなかったことになってしまう。
 「布施の完成」とは、すべての衆生に対して一切の自己のものを、布施の結果の功徳と共に、施捨する心から生ずると説かれている。ゆえに、それは心に他ならない。

【解説】

 六つのパーラミター(六波羅蜜)の第一番目の布施の完成の修行についてまず言及されています。
 古の聖者たちは、当然、この第一段階の布施の完成の修行を成就し、次の段階、次の段階へと歩を進め、仏陀となっていったはずです。しかし、「布施の完成」という意味が、布施される対象を基準として定義されるならば、大昔から今まで、世界から貧困が消えたことはないのですから、今まで誰も「布施の完成」をなしえていなかったことになってしまいます。
 そうではなくて「布施の完成」とは、布施する側の心の問題だということです。自分の物理的・精神的・概念的な一切の所有物を、すべての衆生にささげる心、そしてその布施によって生じる功徳でさえもまたすべての衆生にささげる心。この心が完成すれば、すなわちそれが布施の完成なのです。 
 これは真実ではありますが、我々の心には「ずるい心」が潜んでいるので、それはまた別の意味で気をつけなければなりません。すなわち、「すべては心が重要なのだから」と言って、実際の実践をあまりしないタイプですね。これでは駄目です。
 だから我々はまずはひたすら、できる範囲で、布施の実践を実際にすべきなのです。そしてその範囲を徐々に広げていき、最後には、必要であれば全財産でも、肉体でも、何でも喜んで布施の実践ができる心の状態になったとき、それが布施の完成ということができるでしょう。

【本文】

 それを私が殺さないようにするために、魚などの生き物は、どこに連れて行かれればいいというのだろう。そうではなくて、殺生(などの悪業)を停止する心が得られれば、それで戒の完成は成立する。これが(真実を知る人の)意見である。

【解説】
 
 布施の次の段階、戒の完成について。ここでは殺生が例に挙げられているわけですが、ここでも、戒の完成の意味は、戒を守る自分のほうの問題なのか、その対象の問題なのか、ということについて言及されています。もし我々が、一切の他の生き物と接することがなければ、そもそも殺生も盗みも邪淫も犯しようがありません。しかしそういうことはこの世では不可能ですし、そもそも戒を守るとはそういう意味ではないのです。戒を破る条件となるものを目の前から排除することが「戒の完成」なのではなくて、あらゆる悪業を停止する心が自分のほうに得られれば、その人はどんな状況においても、戒を破ることはなくなるでしょう。それが戒の完成なのです。

【本文】

 天空のように無数に存在する敵を、私はすべて殺すことができるだろうか。
 ただ私の怒りの心が殺されれば、すべての敵(という概念)は殺される。

【解説】

 ここは忍辱の完成に対応する箇所ですが、ここに美しく説かれているように、自分の中の怒りが消え、敵という概念さえ滅されたなら、すべての敵はそもそも存在しなくなるのです。

 もうお分かりでしょうが、ここでシャーンティデーヴァは、別に、六つのパーラミター一つ一つの意味を詳説しようとしているわけではありません。いかに自己の心を制することが重要であるかを、六つのパーラミターを例にして説いているのです。 
 そして次の部分によって、その教えはより真髄に近づいていきます。

【本文】

 大地をすべて覆うことのできる皮が、どこにあるだろうか。それはどこにもありえない。
 ただ皮の靴を履くことによってのみ、大地はすべて覆われる。

 これと同様に、私は外界の存在物を制することはできない。私は自分の心を制しよう。どうして他を制する必要があるだろうか。

【解説】

 ここは有名な一節で、入菩提行論の中でも最も美しい詩の一つといえるでしょう。

 そしてこの部分こそ、この章のメインテーマを最も言い表しているともいえます。

 普通、我々が「幸福」を考えるとき、「外的条件を整える」事を考えます。たとえば、良い結婚をしたら幸福だが、できなかったら不幸だとか、お金があったら幸福だがなかったら不幸だとか。
 しかしこれら外的条件は、常に移り変わるものであり、常にあらゆる条件を整え続けるということは不可能なのです。ちょうど、大地全体を皮で覆うことが不可能なように。

 そうではなく、自らが革靴をはくなら、それはその人にとっては、大地全体が皮で覆われたのと同じことになります。つまり、仏教が求める幸福とは、「外的条件を整えた幸福」ではなくて、「外的条件に左右されない内的幸福」なのです。恋人がいてもいなくても幸福、お金があってもなくても幸福なのです。そんな無常な外的条件とは全く関係がない、自らの心が浄化されることによる幸福なのです。
 だから、我々が修行を進める上において、あるいは幸福になる上において、周りの条件をどうこうしようということは、この大地を一生懸命皮で覆おうとしているようなもので、苦労が多いばかりでナンセンスなことです。それよりも自ら革靴を履きましょう。自己の心を制しましょう。自己の心を浄化しましょう。自己の心を至福で満たしましょう。それが唯一重要なことです。

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