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「身体は道具」

【本文】

 肉を貪るハゲタカによってあちこち引き回されながら、何ゆえに(死者の)身体は、なんらの抵抗も試みないのか。

 心よ。何故に汝は、この集積(身体)を自己のものとして守護するのか。もし汝とこの身体とが別のものなら、それ(身体の被害)によって、汝に何の損失が及ぶか。

 ああ、愚かなる者よ。汝は清潔な人形を自己のものとしているのではない。何ゆえに汝は、この汚物で作られ、悪臭を放つ機械を守護するのか。

 まずはじめに、自己の思念の力によって、この皮膚なる覆いをはがして考えよ。次に智慧の刃によって、骨組みから肉を切り放て。

 さらに、一つ一つの骨を離し、中にある髄を見よ。そして、そこに何か本質的なものがあるかどうかを、自ら考察せよ。

 かように努力をもって探求しても、汝に本質的なものは認められない。(それなのに)何ゆえに未だに身体を守護するのかを説け。

 汝は不浄物を食うこともできず、血を飲むこともできない。また腸を吸い取ることもできない。身体は、汝に何の用があるか。

 それは、(ただ)ハゲタカ、山犬などの餌食となるために守護に値している。この身体は、人間にとっては行為の用具である(に過ぎない)。

 汝がかように守護しても、無慈悲な死神は、身体を奪い取って、それをハゲタカに与えるであろう。そのとき、汝はいかになしうるであろうか。

 召使が「家にとどまらないであろう」と考えられる場合に、主人は彼に衣服等を与えない。(召使のような)この身体は飽食した後に去り行くであろう。何ゆえに汝はそれのために浪費をするのか。

 心よ。彼に賃金を払い、その後に、今、自己の利益となることをなせよ。なぜなら、雇い人の利益のすべてが彼に与えられるべきではないから。

 行き来にそれを利用するから、身体を船と考えるべきである。そして衆生の利益を成就するために、身体を思うがままに行かしめよ。

【解説】

 お釈迦様は老人、病人、死人を見て世の無常を悟り、修行の道に入ったと言われますが、現代の日本においては、家族などが亡くなった場合以外、なかなかリアリティを持って死体と向き合うということはなくなっていますね。
 インドのヴァラナシなどでは今でも山積みにされた死体が焼かれていく光景や、その横には死の寸前の人たちが死を待つ小屋などもあります。チベットには鳥葬の伝統がありますね。現代のインドで、街中で死体を見かけるということはあまりないかもしれませんが、このシャーンティデーヴァ在世時のインドでは、そういうこともたびたびあったと思われます。
 そのようにリアルに死体というものを観察すると、それはハゲタカに食われても、焼かれても、何をされても、何も抵抗をしません。つまり当たり前のことですが、肉体そのものにはそもそも意志はありません。我々が心と呼んでいるものと肉体とは、そもそもが別のものです。
 そもそも別のものなのですから、たとえばこの肉体がダメージを受けても、本来、心には関係がないではないかというのです。これはつまり、強すぎるこの肉体への執着(有身見)を取り除くための観想の仕方が、このあともいろいろと続いていくわけですね。

 この肉体が単なる機械仕掛けの人形だとして、それが非常に清潔で美しいならば、それに執着してしまうこともまあ理解できるでしょう。しかしこの肉体という機械は本来、非常に不潔なのです。中は糞尿で満ち、あちこちの穴から汚物が流れ出します。皮膚からは垢やふけが出ます。こんなものに執着する価値などないではないかというわけですね。

 そして瞑想によって、解剖学的に、自分の肉体の内部を観察していきます。現代では皆さんある程度人体の解剖学の知識はあるでしょうから、皮をはぐと、筋肉があり、脂肪があり、筋があり、内臓があり、骨があり・・・といったことを観察していくわけですね。そして身体の支柱ともいえる骨、その骨の中の髄を観察しても、どこにも「私」と言い得る本質的なものは発見できません。そういうことを観察し、納得していくわけですね。

 結局この肉体というのは、我々がこの世で何か事をなす上での、道具に過ぎません。たとえば掃除をするときのほうきとちりとりとか、移動するときの自転車や車とか、修理をするときのドライバーとか。肉体もそれと同様の道具に過ぎないというわけです。もちろん、道具ですからうまく使えるようにメンテナンスは必要ですが、執着する必要は何もないということですね。どんなに執着しても、最後は死によって、肉体は私の心から奪い去られるのですから。

 さらにまた、肉体を召使にもたとえていますね。私の用事をなしてくれる召使、それが肉体です。もちろん、召使にはそれ相応の賃金が払われなければなりません。だから肉体にも、それ相応の世話は必要ですが、我々はそうではなく、全力をかけて肉体の快適さを求めているのです。それは不合理だということです。肉体の賃金として、たとえばこの身を保つための食物とか、様々な必要なものを与えたあと、あとは我が心の利益になること(修行)をしなさい、ということですね。

 そして最後にシャーンティデーヴァは、肉体を船にたとえています。これはどういうことでしょうか?
 つまり、生まれてから死ぬまで、この肉体という船を使って何を行なうかによって、次に生まれ変わる世界が決まってしまいます。つまりそういう意味で「船」なのです。悪しき生き方をすればこの船は我々を地獄へ連れて行きますし、善い生き方をすれば天界や解脱へと連れて行くでしょう。
 そしてただ衆生の利益のために、衆生を真の幸福の世界へと導くために、この肉体という船を思う存分使いなさい、ということですね。そのような生き方をする者は、もちろん本人も、最高にすばらしい世界へと行くことができるでしょう。

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