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「解説『至高のバクティ』」より「バクティ」第一回(1)

201205020 勉強会講話「解説『至高のバクティ』」より

「バクティ」第一回

 はい、今日は前回エッセイ集の2の『約束のサイン』が終わったので、新しい『至高のバクティ』の、一番最初になります。「バクティ」ってところですね。はい、じゃあ読んでいきましょうね。

【本文】

バクティ

 バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである。
 それは永遠の愛であり、それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る。
 その愛を得るや、心は満ち足り、人はもはや他の何をも望まず、何があっても嘆かず、何をも憎まず、何にもとらわれない。

 はい、これはですね、もともと『ナーラダバクティスートラ』という聖典があって、それをちょっとわたしが分かりやすくまとめたやつですね、この話はね。この『ナーラダバクティスートラ』も、日本ではあんまり有名じゃないんですけど、いろんな聖者方が読むことを勧めている聖典なので、これもしっかり読んだらいいですね。
 はい、このナーラダバクティスートラの一番最初――「バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである。それは永遠の愛であり、それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る」と。
 あの、バクティっていうのはとても定義が難しいんですけどね。バクティって言葉自体はヒンドゥー教でも仏教でも出てくるわけですが、いわゆる信愛――信じ、愛する――信愛というふうによく訳されるわけですけども。まあただそれだけではよく分かんない。いろんな要素が含まれているわけですが、でもここでナーラダ――この『ナーラダバクティスートラ』――あの皆さんもよく知っている聖者ナーラダね――ナーラダが説いたといわれているわけですが――そのナーラダによると、一言で言うと、「バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである」と。で、「それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る」。そして「心は満ちたり、人はもはや何をも望まず、何があっても嘆かず、何も憎まず何にもとらわれない」と。
 はい、これこないだもちょっと言いましたけどね――つまり神にわれわれが祈るときっていうのは、当然いろんなレベルで神の恩寵を願ったり期待したり、あるいは神からの祝福、あるいは自分を幸せにしてくださいとか、そういう事を当然願ったりするわけですね、まあそれがレベルに応じて現世的なものから、解脱だったり、あるいはよりね、崇高なものに変わっていくわけだけど――ここで言っているのはそうではなくて、つまり神に愛される、あるいは神から何かをいただくんじゃなくて、いかに自分が神を愛せるか――つまり究極に――ここに書いてあるように、もう他に――まあ、「あなたの愛に」の歌にあるようにね、「もうほかは何もいりません」と。「全く何もいりません」っていうくらいに自分の心のベクトルのすべてを神に向けられるかっていう問題ね。
 もう一回言うよ、そしてこれは、例えばラージャヨガ的な、単純に「はい、神に精神集中しましょう」っていう問題でもない。じゃなくて「愛」なんだね。愛。で、この間言ったと言ったのは――この間何かの勉強会のときに言ったけども――われわれにとっての最高の願いはこれなんだね。つまりその――「あなたへの永遠の愛をお与えください」と。「バクティヨーガの歌」にあるように――「あなたへの永遠の愛をわたしにお与えください」と。
 これは、あんまりバクティヨーガ知らない人にとってはちょっと、「え?」って思うかもしれない。つまり自分の心の方向性みたいなものを願っているわけだけど――でも、これがバクティにおける――まあバクティにおけるというよりも、この世における最高の願いなんだね。
 だから皆さんもこれ覚えといてください。覚えといてっていうのは――例えばさ、漫画とかでよくあるけど――もしかするといきなりね、なんかあるとき神がパッと現われて「願いを言え」って言うかもしれないよ(笑)。「願いを一つだけ言え」とかね、「三つだけ言え」とかそういうのよくあるよね(笑)。そのときちょっとパニックに陥って「ああ、どうしよう」ってなって(笑)、「大きな家をください」とかね、くだらないこと頼んでもいけないし、あるいは修行上に関しても、なんていうかな、例えば「解脱をください」って言ったとしたらそれはそれで素晴らしいと思うけども、でも実際には、もっと素晴らしいことがあるっていうことですね。で、その最高の願いであるべきことが、この、あなたへの――つまり「主への終わりなき絶対なる完全なる愛をわたしにください」と。これがだからバクティの最高の理想なわけですね。
 で、もう一回言うけども、それをもし得ることができたならば――これもね、言葉にすると変なんだけど、「至高者への完全な愛を得たならば完成する」っていうんだね。うん。面白いね。でもこれがバクティの秘密なんですね。それによって完成するし、で、ほかに何も望むことはなく、何があっても嘆かず――ね。何かがないっていうんじゃないんですよ。つまり、苦しいことが起きないっていうんじゃないんだよ。これは過去のいろんなバクティヨーガの聖者の物語見ても分かるように、逆にこういう道を歩むと――逆にって言うとみんな怖がるかもしれないけど、いろんな試練とか、あるいは浄化の試練がいっぱい来るわけだね。だから神に心向けてるからって悪いことが起きないわけではない。逆に言うとね、逆に言うと、そこまでわれわれは信仰を昇華しなきゃいけないっていうか。
 つまりまだこのバクティにあまり入れてない人――宗教をやっている多くの人がそうだけども、つまり、神に自分の幸せを願う、あるいは無病息災、つまり悪いことがないことを願うと。こういう段階からもちろん始まって構わないんですよ。つまり最初は神なんか信じないという段階があって、そこから、じゃなくて神に信が高まり、でも神に自分の人生を良くしてもらいたい――こういう段階から始まるわけですけども。でも、ある段階からバクティってのはもうちょっと真髄的なところに向かう。――つまり、良いことも悪いことも全部お任せですと。その中で、わたしの心は神への愛だけでいっぱいになりたいと。そうなったならば、結果的にその人は苦しみがなくなる。苦しみがなくなるっていう意味は、もう一回言うけども、苦しいことが起きないわけじゃないんだね。苦しいことが起きないわけじゃない。客観的に苦しみが起きたとしても、何があってもそれは何でもない。なぜかっていうと、神への愛でいっぱいだから。
 変な言い方すれば、それどころじゃないっていうかね。神への愛で満たされているから、別に――だから全部、自分の自我も全部神への愛一本に――つまりさ、苦しいっていうのはさ、自分が作り出したエゴの幻影があって、それを守りたい心があって、で、それを阻害されるっていう錯覚してる現象が起きると苦しいわけですよね。でもこのエゴの概念も全部差し出してるから。自分の中には神への愛以外ないという状態にしているから、現象で何が起きても、別に何も嘆くことはないんだね。ある段階ではただすべては幻のように流れていくし、ある段階によっては逆にみんなが苦しみと思うことすら喜びであると。愛であると。神からのプレゼントであると。ね。プレゼントと思ってすごく歓喜になったりもするし、あるいは別パターンとしてその――まあつまり神のリーラー、神とのお遊びと考えて楽しくなったりもする。これがバクタ、バクティヨーガの一つの理想ですね。何も憎まず、何にもとらわれないと。
 でもいつも言うようにさ、われわれはまだ途中の段階なので、このバクティの理想と、それから世俗のマーヤーとのせめぎ合いの中にいるって言ったらいいね。だから例えば皆さんの心が純粋化されたときっていうのは、ここに書いてあるように、あらゆることを神の愛と考え、もう何があっても喜びに満ちる。でもそこにマーヤーの罠がやってくる。そうすると逆にここに書いてあるように、例えばちょっとずつ始まるわけですね。ちょっとずつ、ちょっと、満ち足りる、じゃなくてちょっと不満が出る。「あれ?」って感じで不満が出る。あるいはちょっと欲求が出る。あるいは少し嘆きが出る。あるいは少し憎しみやとらわれが出る。
 で、これをちゃんと念正智して、「いや、わたしは神から今意識が外れていた」と。「じゃなくて、しっかり神に心を戻そう」ってやればいいんだけど、じゃなくてわれわれの心が甘いと――今日読んだ詞章にも「自分の心を甘やかすな」とあったけども、甘やかしていると、すぐにこのマーヤーの罠に巻き込まれるわけですね。
 だから理想は理想としてあるんだけども、心が巻き込まれちゃう。最初はちょっとしたとらわれ、ちょっとした不満、ちょっとした憎しみだったのが、もうそれで頭がいっぱいになる。で、その現象ね、マーヤーの現象自体にとらわれて、その現象自体を何とかしたいって思ってしまうようになる。これがだからマーヤーの罠だね。
 で、このマーヤーの罠と、そうじゃないわれわれの至高者への集中、このせめぎ合い――でもね、みなさん分かると思うけど、このマーヤーの罠をやってんのも至高者だから。ね(笑)。このへんが面白いんだね。だからよくラーマヤナとかの祈りでもあるけども――「わたしにあなたへの最高の永遠の愛をお与え下さい」と。「そしてわたしが、あなたが作り出したマーヤーに一切惑わされないようにしてください」と。こういう祈りがよくあるわけですね。これはだからとても面白いね。至高者がすべてやっておられる。
 で、もう一回言うけども――その至高者のマーヤーっていうひとつの試練であり、あるいはちょっとリーラーみたいなもんなんだけど――それに捕まることなく、この現象の世界をわたしが自分のエゴの概念でとらえることなく、すべては神の愛であり、わたしの眼には神しか見えない――っていう理想から忘れることがないように、われわれは念正智しなきゃいけない。もちろんその念正智が、最終的にはいらなくなる――いらなくなるっていうのは、本当にその世界に完全に没入すれば、もう念正智はいらないね。でもまだそこまではいっていない場合は、当然その日々の念正智によって、その状態をキープし続けなきゃいけないわけですね。

 はい、ちょっとこの経典は――これはさっきも言ったように、非常に重要な経典でもあるので、これもね、ゆっくりとちょっと瞑想しながらいきましょうね。じゃあこの一文、もう一回ちょっと読みますよ。

 【本文】
 バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである。
 それは永遠の愛であり、それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る。
 その愛を得るや、心は満ち足り、人はもはや他の何をも望まず、何があっても嘆かず、何をも憎まず、何にもとらわれない。

 はい、この一文を瞑想してください。何度も読み返してもいいし、あるいはそのエッセンスだけを覚えておいて、心の中で瞑想してもかまいません。はい、じゃあしばらくこれを瞑想しましょう。

【瞑想中】

 はい、じゃあ瞑想終わって。

 はい、じゃあ次のところもいきましょうね。

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