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「解説『バクティヨーガ・サーダナー』」第二回(1)

2012・09・12

バクティヨーガ・サーダナー 第二回

 はい。今日は『バクティヨーガ・サーダナ』ね。バクティヨーガの修行に関する基本的なものをまとめたやつですね。
 はい、これをまとめた人はシヴァーナンダっていう近代の聖者ですけども、このシヴァーナンダさんという方は、まあ例えばラーマクリシュナや、あるいはシルディ・サイババとか、あるいはヴィヴェーカーナンダみたいな、なんていうかな、その、強烈な個性を持った人っていうわけじゃないんだね。あの、どちらかというとその、非常に正統的に多くの教えを学び、で、まあそれを表現するというかな、まとめる力にとても長けてたっていう感じがするね。だからこの方のまとめたものって、とても実質的で分かりやすいものが多い。で、この『バクティヨーガ・サーダナ』もそうなんですが――まあでも逆に言うとだから、そんなにその、なんていうかな、自分の主張とか入れてないんだね。まあ伝統的な経典とかからのまとめたものという感じで出してるので、まあその辺も非常に、信頼がおける作品が多いですね。はい。で、このバクティヨーガに関するものだね。
 で、これはまあ非常にありがたいものなんですね。なぜかと言うと、いつも言うようにバクティヨーガというものはなかなか、まあまとめづらいというかな、とらえどころがないところがあるので、ある程度こういう指針的なものがあると、まあ非常に修行しやすいというかね――っていうのがありますね。
 はい、今日はさっき読んだ「欲望から生じる十の悪癖」っていうところからね、いきたいと思います。
 はい。この「欲望から生じる十の悪癖」というのは、まあ実際にはちょっと、なんていうかな、テーマとしては分かりにくいわけですが、まあ実際には欲望から生じるというよりは――まあ欲望から生じるというのはもちろんあるわけだけど、まあ逆に、これによって欲望が増大するとも言える。まあつまりその、ちょっとループにはまるというかね。
 つまり、こういうこと――欲望によってこういう――今からね、学ぶこの十の項目が生じますよと。で、さらにそれをやることによって、より欲望が増大するって考えたらいいかもしれない。
 まあこれはまたひとつの定義にすぎないので、まあ例えば仏教にしろヨーガにしろ、いろんな聖典で、例えば欲望に関するこういう定義とかいろいろあるわけだけども、それは一つの定義なので、絶対的なものとしては考える必要はない。どちらかというと、われわれの実質的な――その、それをわれわれが理解し、学ぶことによって、われわれの欲望が減っていくとかね。そのための実質的な教えだと思ってください。はい、じゃあ読んでいきましょう。

【本文】
  
欲望から生じる十の悪癖

1.狩猟などの殺生を好むこと

2.ギャンブル

3.昼間に眠ること

4.他者を罵倒・中傷すること

5.悪い女性との交際

6.飲酒

7.恋愛の歌を歌うこと

8.低俗なダンス

9.低俗な音楽

10.そして、繁華街などをあてもなくぶらつくこと

 はい。バクティの実践者は、当然これらの項目に関することをやってはいけないと。で、それによって――まあ、それ自体が欲望から生じているわけだけど――同時にわれわれの欲望がね、より増大していってしまう。
 はい。まず「狩猟など殺生を好むこと」ってありますが、まあこれは当たり前だけどね。殺生はしてはいけないと。
 で、まあ仏教の、あの、『覚醒の虹の宝飾』だったかな――ああいうのでは、その、狩猟などをやる場合の、まあさまざまな動機であるとか、あるいは結果であるとか、いろいろこう分析されているわけだけど、まあここではそこまでは言ってない。言ってないけども――まあこれ昔の話なんでね、あの、現代のわれわれは狩猟ってあんまりやんないけども。狩猟をやるときの、特に昔の話としてはね、当然その、まず動機としては、まあその肉を食べたいのかもしれない。あるいは皮が欲しいのかもしれない。あるいはそうじゃなくて、まあ単なるそのスポーツとして楽しみを得たいのかもしれない。とりあえず自分のなんらかの欲望があるわけですね。で、その欲望によって、もちろん、他者っていうかな、他の魂である動物が苦しむことをあまり考えないと。うん。で、この働きによって、まあわれわれは――というか現代はやらないけども、昔は狩猟というのをやっていたわけですね。
 で、現代ではあまりこれに――そうですね、該当するようなものって、特に現代日本ではあまりないかもしれないね。狩猟に代わるようなもので、わざわざ動物を傷つけるようなことは、わざわざやらないね。逆にちょっとオーバーなぐらいに、現代では動物愛護が叫ばれてるから、まああまりなんていうか、ここの部分は関係ないかもしれないね。
 まああえて言うなら、いつも出てくるあの、虫を殺すっていうのがあるけども、まあでもそれはちょっとここのテーマからちょっと外れるけどね。
 はい。で、次に「ギャンブル」。まあこれは分かりやすいね。ギャンブル。欲望によってギャンブルをやると。で、ギャンブルをやると当然、まあいつも言ってるように、あの、まあなんていうかな、その期待とそれから損失に対する、その挽回したいという気持ちによって、どんどんはまっていくと。
 ギャンブルは本当にもう、古今東西あらゆる時代にあるね。うん。これはもう本当に――まあ例えば『マハーバーラタ』でも、そもそもあのパーンドゥ五兄弟が追い出されたのは、神の化身ユディシュティラがギャンブル好きだったから(笑)。まあこれは神のリーラーなわけだけど(笑)。リーラーのそのきっかけが必要だったわけだけども。だから、いろんなその古今東西の話には、まあギャンブルは出てくるし、で、ギャンブルで身を崩した例とかもたくさん出てくるわけですね。
 現代日本でも、もちろんいっぱいあるよね、この辺にはね。この辺にはっていうか、横浜も、ねえ、競輪場もあるし、あの、パチンコもいっぱいあるし。ね。まああるいは競馬、あるいは――まあよく知らないけど、日本ではカジノみたいなのはまだないので、ああいうのはないかもしれない。まあでも、外国に行けばカジノみたいのもあると。はい。そういうのにはまってしまうと、まず第一段階で欲望があるので、つまりその、楽して儲けたいと。あるいはまあ、なんていうかな――まあとにかく儲けたいというのがあって、それによってはまりだすと、今度はより眠っていた欲望みたいなのが増大してしまう。よってギャンブルには手を出すなと。
 何回かわたしも言ってるけど、前、若いころわたしもパチンコを少しだけやったことがある。やっぱりそれはよくないと思ったね。やってる間に、だってあの、「出ろ、出ろ、出ろ」と思ってるわけで、これは翻訳すると、「金、金、金」と思ってるからね。「神、神」じゃないんですよ(笑)。いつも「クリシュナ、クリシュナ」「ラーマ、ラーマ」じゃなくて、「金、金、金」と。ね。あの、ねえ、「さあ、ゾロ目が出ろ」と。それを思ってるっていうのは、もう一回言うけども、その背景には、「さあ、ちゃんとここでフィーバーして、いっぱい玉が出て」イコール「お金が出ろ」と。「それによって、今までつぎ込んできた分を挽回したい」と。もしくは「このような楽をしてね、大金を得たいんだ」という気持ちでつぎ込むわけですね。で、その間っていうのは、つまり――あの、まあ例えばパチンコでも競馬でもなんでもそうだけど、例えばその金をつぎ込み、その結果が出るまでの長い時間、ずーっと金のこと考えてるわけだから。で、そこで終わりじゃないからね。さっきから言ってるように、いったんそれが、まあ勝とうが負けようが、次の今度は欲望につながるからね。負けたらもう挽回したいと思うし、勝ったら、「ああ、やった!」と。その経験によって、「よし、もっと次は稼いでやろう」という気持ちが、まあなんていうかな、それは実際に実行するかどうかは別にして、心の中で燃え上がります。だから当然ギャンブルは駄目だと。
 あの、これは仏教でももちろんギャンブル駄目だと言ってるわけだけど、あの、当然われわれの根幹的な戒律である五戒であるとか、あるいはヨーガでいうとヤマ、ニヤマとかあるわけですけども、ああいったものっていうのはもちろん、非常に普遍的で、根本的に守るべきなんだなってよくわかると思うんですけども、あの、このギャンブルとか、そういったちょっとサブ的なものっていうのは、まあ皆さんの中には、もしかすると「いや、これはそんなに悪業じゃないんじゃないか」とか、いろいろそういうのもあると思うんですね。だからこういったその教えっていうのは、まあ非常に指針になってくれるからいいですね。「いや、それはギャンブルも駄目ですよ」と。バクティ――バクティだけじゃないけども、修行を進め、あるいは本当の意味でカルマを浄化するんだったら、ギャンブルにも手を出してはいけないということですね。はい。

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