「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(10)
◎食事の供養
はい。
「食事をする前に必ずその食物を師や仏陀に供養するイメージをする。」
「食実中も、自分が食べているのではなく師や神や仏陀に捧げている観想をしながら食事をする。」
あの、カイラスでは……そうだな、わたし自体がそうだったからっていうのもあるんだけど、あんまり食事について厳しいことは言わないですね。例えばあれ食っちゃいけないとか、あんまり厳しく言わないし。あるいはあんまり食い過ぎるなとも言わない。特に食い過ぎるなに関しては、もちろん実際には小食の方がいいんだけども、小食っていうのはだんだん自然になっていけばいいわけであって。
わたしもさ、ちょっとこう言うと言い訳になっちゃうけど、あの、O型だからわたし――全然言い訳になってないんだけど(笑)。
(一同笑)
O型の人っていうのはやっぱり見てると、食物中心なんだね、煩悩がね。食物中心っていうか、食えば頑張れるみたいなところがあって。食わないとやってらんないみたいなところがあって(笑)。そういうところわたし昔あったから、自分で食べ物を抑えるっていうよりは、まあ食べて頑張るようなところがあった。で、それはそれでかまわない。しかし――だから例えば皆さんこの中でね、例えば人を嫌悪する――「いや、それは駄目だ!」と。「嫌悪は滅しなさい」と。あるいは、例えば性を漏らしてしまうと。「いや、それは性エネルギーっていうのはクンダリニーだから、それは絶対やめなさい」と。これはバシバシってなるわけだけど。あるいは、「いやあ、テレビいつも見ているんです」「いや、そんな情報いっぱい入れてどうすんだ」と。「瞑想やっても意味なくなっちゃうじゃないか」と。「できるだけそういったテレビとか見ないようにしなさい!」――こう言うけども、例えばY君とかが「ラーメン大好きでやめられないです」「ああ、別にいいよ」と(笑)。
(一同笑)
「供養しなさい」と。うん。供養しなさい。で、これは何度も言っているけどさ、もしそれを皆さんが例えば本気で受け入れたら、食いしん坊であればあるほど修行は進むっていうことになるよ。だって――わたし今、小食だけどさ、結構――あんまり食べられない人がいたら、供養の瞑想あんまりできないですね。うん。ちょっとで終わってしまう。で、もしすごい大食漢だとしたら、食っている間ずっと供養できるから。「供養します、ああ、供養します、ああ……」(笑)。
(一同笑)
で、もしいろんなものが好きな人がいたとしたら、いろんなものが供養できるよね(笑)。「ああ、供養します、供養します」。
だから、なんていうかな、もちろん自分の中で、できるだけこう欲望を抑えるという気持ちは大事なんだけど、どうしても駄目な場合ね、抑えられない場合は、別に極端に抑える必要はない。食べ物に関してはですよ。食べ物に関しては、どちらかというとそれよりは、今よりも何倍も供養の気持ちを強めてください。ここに書いてあるように、自分が食べているんじゃないんだと。自分が身体を祭壇として供養しているんだと。
例えば、だからそれはいつも言うように、「おいしい!」でかまわない。原始仏教とか原始ヨーガ的な発想は、どちらかというと味覚を否定する。「これは『おいしい』というのは幻影である」と。「味覚とはなんなんだ」と。「ただの過去の経験の追体験に過ぎない」と。「ただそれは舌に生じている刺激に過ぎない」とか言って食べるわけだけど、この大乗仏教や密教の供養の発想はそれはしなくていい。おいしさを充分味わってください。「うめー!」と。ね(笑)。「この美味しさを供養します!」と。だって美味しくなきゃ失礼でしょ? 供養なんだから。「おいしい!」と。「この喜びを供養します」と。「この素晴らしい供物を供養します」。
で、何回か言っているけどね、それを本気でやると、わたしの経験でいうと、一般の味覚はちょっと減ってきます。で、もうちょっと内的な味覚っていうか内的なエクスタシーが増えていきます。だからちょっと食べるって行為が変わってくるんだね。前の、舌に依存した食べ物のおいしさじゃなくて、もうちょっと内的なエクスタシーみたいのが増大してくるっていうかな。だから逆に、食べ物の執着がだんだん減ってくる。供養をしっかりやっているとね。
でもこれもね、何度も言っているけどさ、こういったことっていうのは、一つ一つやり続けることが大事なんだね。やり続けるか、あるいはたまにやるか、あるいは忘れてほとんどやらないかでは全然違う。だからこの供養の瞑想も、われわれは一日、多い人では三回食べている人もいるかもしれない。あるいはまあ二回、一回かもしれないけど、少なくとも毎日最低一回は食べるよね。――っていうことは、一回はできるってことです。この素晴らしい供養の瞑想がね。だからそれを習慣としたらいい。