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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第12回(2)

◎自らの安楽にとらわれない・他者に安楽を与える

 はい、じゃあ「正法」――正しいダルマをしっかりと修め取る方法の第一として、まず「自らの安楽にとらわれない」。で、これはもちろん、二番目の「他者に安楽を与える」っていうことと、まあセットになっているわけですけども。
 もちろん菩薩道、大乗の法っていうのは、他者に安らぎを与える。この安らぎっていうのはいろんな広い意味があるね。究極の安らぎはもちろん悟りを与えるっていうことだけども。でももちろん、相手の状態とか現象に応じて、当然いろんな意味での安らぎを与えると。
 まあ『安らぎを見つける三部作』ってあるけども、本当の意味での心の安らぎ、これは究極の贈り物ですけども。まあそこまでいかなくても、もちろん日常において「ああ、みんな幸福ですか?」と。「さあ、みんな、困っている人いませんか?」と。――まあ、だからちょっとしたことでもいいんですよ。誰か、ちょっとお茶がなかったらお茶くんであげるとか、そんなんでもいい。
 だから『入菩提行論』とかを読めば分かると思うけど、完全にここにおける背景は、自我と他者を入れ替えるってことなんだね。自分のことはわれわれはすごく安楽を気を使うじゃないですか。うん。で、人に文句を言ったりするわけだね。特に家族とかそういうのあるよね。「お母さん! お母さん、お味噌汁がないよ!」とかね(笑)。「お母さん、このごはんちょっと固いよ」と。つまり、いかに自分が安楽であるか。つまり自分はもう本当においしいごはんを食べなきゃいけないと。あるいは自分は、例えばなんていうかな、時間を誰にも邪魔されてはいけないと。自分はこのような安楽な生活をしなきゃいけないっていう、もうそれで頭がいっぱいであると。で、それで、それを人に要求したりするわけだけど、これを逆転させるわけです。これを、この気持ちを他人に全部向ける。「さあ、みんな安楽かな?」と。「さあ、みんなちゃんと幸福かな?」と。
 もちろん何度も言うけども、究極の悟りという安らぎに達してくれれば一番いいんだけども、まだそこまでいかなくても――もう一回言うよ、自我にわれわれが持つような、安楽を気にする気持ちね。われわれは自我の安楽をいつも気にしている。うん。どうやって――表面的には考えないよ。表面的にはそんなこと考えないけども、潜在意識はいつも考えているわけだね――さあ、いつもどれだけわたしは安楽でいられるだろうかと。わたしの安楽に欠けはないだろうかと。わたしがちょっとでも苦しむのは許せない。こういう気持ちを持つわけですね(笑)。
 だからね、修行者っていうのは、もちろん極端な苦行はする必要はないんだけど、ただ、なんていうかな、特に現代人ってちょっと安楽にかなり偏っているので、ほどほどの苦行はするくらいの気持ちでいいんです。うん。『入菩提行論』じゃないけども、ちょっとなんか苦しいことがあったらそれは、苦行っていうかな、自分の心を鍛える機会だ、ぐらいに思ったらいいね。
 まあ、これはちょっと例を挙げづらいんだけど、別にこれはやれって言っているわけじゃないけどね、例として、あんまりいい例は挙げられないけども、例えば雨が降ったと。ちょっとぐらいなら濡れてりゃいい。ね。寒いと、ちょっとぐらいなら凍えてりゃいい(笑)。例えばの話ですけどね。あるいは暑かったらそれはまあ、ちょっとぐらいだったらその暑さを受け入れてね、耐えればいいと。だからちょっとぐらい、なんか自分の中に不便さとか、あるいはちょっとこう安楽じゃない状態が生じたとしても、まあそれは当たり前っていうか、神が与えてくださったものとして喜んで受け入れると。こういう訓練が必要なんだね。
 で、自分に対しては、何度も言うけども無頓着になる。自分のことは、まあつまり勘定に入れないっていうかな。じゃなくて周りの人のことを、昔のっていうかエゴに満ちてた自分がいつも自分のことを心配してたような気持ちで周りを見るわけだね。「ああ、あの人大丈夫かな?」「この人、大丈夫かな?」「この人、なんかちょっと苦しんでないかな?」と。
 もちろんこれをね、もうちょっとレベルを上げて、周りが修行者だった場合は、そういった目で見てもいいですよ。例えば、「ああ、この人苦しんでいるけど、修行者だからカルマ落ちていいな」とかね(笑)。これはこれであるかもしれない。でも、それはベースにはもちろん愛があるわけだね。ベースに愛があって、でも相手の条件に応じてそう言っているだけであって、意地悪で言っているわけじゃない。ベースには本当に、みんな幸福になってほしいなっていうそのものすごい、なんていうか、細かい気遣いがあって。で、その相手の状況に応じてそれを見るわけだね。
 はい。だからこの、セットと考えていいわけだけど、「他者に安楽を与える」と。逆に「自分の安楽にはとらわれない」と。で、この、特に「自分の安楽にとらわれる」っていうのはさ、今言ったみたいに「、わたしは修行者なんだ」って思ってても、すぐにね、なんかこう引きずり込まれるんだね。人間の心って弱いからさ、なんていうかな……逆にね、いろいろこうカルマの浄化がきて、苦しい状況にあるときって結構いいんです、逆に。あるいは貧しい状況とかね。結構、「わたしは修行者だ」ってなるんだけど、逆にちょっと快楽の――よくさ、魔っていうのは修行者を――北風と太陽じゃないけど――苦しみと快楽両方によって攻撃してくるっていうね。で、結構苦しみの攻撃は耐えりゃいいからいいんだけど、快楽の攻撃はわれわれはコロッといってしまうんだね(笑)。ちょっとずつちょっとずつ前よりも贅沢ができるようになってきたり、前よりも心が、なんていうかな、安楽を得られるような状況になってきたりすると、だんだんそれに慣れてきちゃって。で、逆にもう、それでなけりゃいられないような感じになってしまう。これはちょっと駄目だね。
 だからといって、何度も言うけども現代において極端な苦行をする必要はない。例えばナーグ・マハーシャヤみたいに、もみ殻だけ食うとかね(笑)。それはちょっとやり過ぎだから。だからまあお釈迦様みたいに――お釈迦様っていうのはさ、こういう教えがあってね。昔――まあつまり仏教以外のある修行者がね、お釈迦様は多くの信者、弟子たちに称賛されていると。あるいは敬愛されていると。それはなぜなんだっていう話があって。で、その修行者は仏教の本質が分かってなかったんで、「ああ、お釈迦様は本当にいつも小食でね、粗末な物ばかり食べて、いつも森の中とか粗末なところで寝て、いつもそのように質素で苦行生活を送っているから弟子たちに尊敬されているんでしょうね」って言ったんだね。それに対してお釈迦様は、「そんなことはない」と。「わたしは確かに例えば托鉢をしてね、何も食べられないときもあるけども、王様に招待されて大変なご馳走を食べるときもある」と。「あるいは森の中で寝るときもあるけども、在家のお金持ちの信者に招待されてすごい屋敷で寝ることもある」と。だからそこをなんか表面的な、なんていうかな、苦行をしているとか貧しくしていること自体に本質があるわけじゃないんだね。つまりお釈迦様はもう、なんでもオッケーなんです(笑)。うん。全くとらわれていないというか。普通の人だったら例えば、さっきも言ったようにね、毎日――わたしもそうだな、数年前まで、毎日納豆だけのときもあった(笑)。毎日納豆。数か月間そういう日々があったね。うん。毎日納豆しか食わない。納豆だけっていうか、ごはんは食べるよ。ごはんと納豆だけで生きてたときがあったんだけど(笑)。で、それが例えば普通になってしまったら、普通じゃないですか。あるいはまあ、納豆はおいしいからさ(笑)、

(一同笑)

 納豆はおいしいから(笑)、もっと質素でもいいよ。もっと質素でもいい。ごはんも食えない。例えばね。本当にパンの耳しか食べられない食事があったとしてね、でもそれでも大丈夫なんです、普通はね。これが修行だと思ってね。でも例えばそこでいったん豪華な食事を経験する、あるいはすごい粗末な生活をしてたんだけど、いったん贅沢な暮らしを経験してしまうと、やはりちょっとそっちに流されてしまう、普通はね。でもお釈迦様は全く頓着がなかったんだね。今日豪華な食事で、明日食事抜きだとしても、全く心が動かない。あるいは今日宮殿に住み、明日森の中に寝なきゃいけなかったとしても、全く、そこはなんの、心は反応もしないっていうかな。
 だから現代の日本っていうのは、いつも言うように非常に快楽に、あるいは贅沢に偏った世界なので――つまりその、「ああ最近、わたしあまり最近贅沢できないんですよ」っていう人ですら、例えば東南アジアとかから見たら王様みたいな感じですからね(笑)。東南アジアの貧しい人達から見たら、例えばY君とかが「最近ちょっとなかなか経済的に」とか言ってたとしても、王様みたいな生活に見える。だからそのような世界で生きているから、何度も言うように極端な苦行はこの現代に合わないわけだけど、とらわれない修行っていうのはしたらいいね。うん。
 あるいはその、自分の心が「さあ、快楽を追い過ぎていないかな?」と。何度も言うように、与えられた、自然に与えられたものが――日本人ってつまり、ちょっと天界のカルマがあるからさ、自然に――小さいころから自然に与えられたものが結構贅沢だったりするわけです。もうこれはしょうがないっていうか、与えられたものならオッケーです。しかしそれを追い求めない。あるいはその、なんていうかな、もっともっと増大させようと思わない。人間の欲求ってそれがあるからね。
 例えばね、貧しいときは「いや、これだけ食べられれば満足です」って言ってたのが、それが普通になると、「いや、もっとおいしいものないでしょうか」と。ね。よくその、グルメツアーとかね、いろいろあるわけだけど。食べ歩きとかね。つまり、いかにおいしいものを求めるかってふうにいってしまう。あるいはいかに贅沢なものを求めるか、あるいはいかに安楽を追求するかっていうふうに拡大しがちになるんですね。だからそこには一切関わらない。放っておくっていうかな。ただ自然に与えられたものでわたしはオッケーなんです、という思いを常に持ってたらいい。
 これはだから念正智が必要ですね。自分の心をいつもチェックして、「さあ、わたしは安楽に執着していないかな?」あるいは「苦しみを嫌がっていないかな?」――それはしっかりとチェックした方がいいね。

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