「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第10回(6)
◎思い込みの教え
あの、この根本にあるのはさ、ちょっとこれ、これも皆さんに非常にストレートな教えとして言いますよ。ストレートな教えとして言うと――まあ、これもいつも言ってることなんだけど――心なんて、その程度のもんです。
あの、これストレートな教えとして言いますよ。皆さんがもし、例えば怒りにしろ執着にしろ、なんかあったとして、捨てようと思えば、瞬間的に捨てられます。なぜ皆さん捨てられないかっていうと、捨てられないと思ってるからです。
だからこないだ、こないだっていうか何回かここで出してるけども、わたしの好きな教えとしてね、思い込みの教えっていうのがある。思い込みの教えっていうか、例えば、自分は菩薩であると思い込むと。で、経典を見ると、「菩薩はこうである」と書いてある。例えば「菩薩というのは怠惰ではない」と。「菩薩というのは人を憎むことがない」と。「菩薩というのは人を嫉妬したりしない」と。「菩薩というのは、自分の苦しみを気にかけない」と。こう書いてあったとしたら、純粋な心で思い込む。「えっ、おれ、菩薩だよね」と。「え、菩薩、苦しみ気にしない? じゃあおれ、苦しみ気にしないじゃん」と。これによって、本当に苦しみが気になんなくなる。つまり、こんなもんなんです、心って。
◎闇を近づけない
でも、われわれはそうじゃなくて、持続したがるっていうか。自分の例えば、これが苦しいっていうのがあると、なぜか本当にしがみつくんだね。うん。不思議なことに、カルマによってあるいは修行によって、それが自分から離れようとするときもあるんだけども、なぜかこう、「おっ」とこう、元に戻して、その苦しみを手放したくないと。あるいは修行してるのに、ですよ、修行でその煩悩を落とそうとしている修行をしてるのに、煩悩に、ものすごくしがみついて手放さないような努力をしてるっていうかな。これがわれわれの迷妄なところであって。
だから、わたしは、っていうのも変だけど、古からの聖者方は、いろんな方面からそれを教えようとしてるんだね。「それ、手放せるんだよ」と。それはあなたが勘違いしてるだけであって、あなたがその気になれば、いつでも手放せるんですよと。
だって、いつも言ってるように、真我は自由自在だから。われわれの意識っていうのは本当は自由自在なんです。どうにでもなれるんです。でもわれわれは、そういうサイクルにハマってるだけなんだね。
皆さんも経験あるでしょ? 例えばある教えを学んで、ハッとして、ある苦しみがなくなったとかね。でも、教えでハッとしてなくなるんだったら、つまり――じゃあそれ、なんでそうなったのかっていうと、そのシステム、その考え方を適用すれば、なくなったんです。じゃあその適用の仕方を知らなかっただけなんだね。単純にね。もっと言えば、やる気がなかっただけなんです。もしその適用の仕方が最初から分かっていて、で、それをやるっていう意志さえあれば、煩悩はもっと前に落ちてたかもしれない。
でもわれわれは本当に迷妄に囲まれてるから、――あのね、ちょっと変な話になるけども、皆さんが今この教えを聞いてるのも、さっきの話じゃないけども、皆さんのちょっとヘドロがなくなって、隙間に入り込んでいるんです、光が。例えばですよ――家に帰って、まあ、この中でそういう人いるか分かんないけども――例えば家に帰って、例えばテレビを見るかもしれない。で、テレビを見た瞬間、このテレビの世界に入るよね。あるいは、家に帰ってなんか嫌なことがあって、ちょっとこう、頭がとらわれるかもしれない。あるいは、そうだな、実際に怒りがわいてくるかもしれない。で、明日の朝起きても、なんかその、悶々とした嫌な意識にずーっとあると。で、この場合っていうのはその、なんていうかな、例えばそれがY君だとしたらですよ――Y君は、Y君っていうその連続したアイデンティティの中で、今夜はこの教えを聞いてちょっと心が目覚めたけども、家に帰ったらいろんなことがあって、無智になっちゃいました、って考えるかもしれないけども、そうじゃないんです。そうじゃなくて、それがさっき言った洗面器の例えでね。家に帰ったときのY君っていうのは、完全にその、ヘドロがこう、表面を覆ってしまって、つまりその瞬間っていうか、そのY君っていうのは百パーセント、なんていうかな、真理ではないっていうか。如来の光が入り込まないY君になってるっていうことなんだね。あの、全く変わらないY君が、今夜は真理を理解して、家に帰ったら理解しなくなったっていうんじゃないんです。
Y君側の条件によって、今この瞬間にですよ、今この瞬間は――つまり、ここにいる人が、みんなは、ちょっとこう心の、光を入れる透明度が増してると。で、それによって、例えばこういう教えを聞くと。でもそれをもし持続できない人がいるとしたら、また自分の煩悩に巻き込まれる。
で、もう一回言うけども――よくこういう人もいるよね――「わたしは心が揺れやすい」と。ね。あるときは真理を理解し、あるときは、まあ心がちょっと煩悩に覆われると。まあこういう人はよくいると思うけども。で、これもね――ちょっと、今言ってることは難しいので、ストレートに伝わってるか分かんないけども――アイデンティティがあるわけじゃないんです。アイデンティティがあるわけじゃないっていうのは、もう一回言うと、Y君っていうその連続した意識があって、昨日こうだったけど今日こうだって言ってるんじゃないんです。瞬間瞬間、その駄目なY君っていう存在があるとして、で、心の開いたY君っていうのがあるとしてね。ただそれだけなんだね。
でもそれは、一応、まあわれわれはそのアイデンティティみたいなのを持ったような感じになってるから、だからその、一応それに則ったアドヴァイスとして言うと、つまり、一つ一つの――あのね、つまり、何を今、言いたかったのかっていうと、今この瞬間、皆さんが素晴らしい縁によって、教えを聞いたとするよ。真理の教えを聞きましたと。で、家に帰ったらそんなこと忘れちゃったとするよ。忘れちゃって、もうどうでもいい感情にとらわれましたと。で、次にまた目覚めたときに――目覚めたっていうか、また真理を考え出したときに、「ああ、わたしは、こないだ勉強会に行ったときにちょっと心が真理に向かったのに、その後三日間ぐらい駄目になっちゃった」と。「でも三日後に、またちょっと目覚めてきた」と。「ああ」――つまりその、連続した自分っていうのがあって、その自分がちょっと闇に覆われちゃって、でもまた闇から覚めたな――じゃないんです。何度も言うけどね。うん。連続した自分が闇に覆われて覚めたんじゃないんです。その闇に覆われてたときっていうのは、闇に覆われた自分しかなかったんです。闇に覆われてない自分が、闇に覆われたんじゃないんです。闇に覆われた自分しかなかった、そのとき。――っていうことなんだね。
でも、まあ一応は、考え方としては連続してるとしてとらえるしかないから。で、その上で言うならば、つまりわれわれは、できるだけその闇を近づけない。じゃあこの、できるだけ闇を近づけないことができるときっていうのは、闇がないときなんです。つまり、今なんです。もし今、皆さんがこの教えを聞いて――まあこの教えだけじゃないよ。修行してるとき、あるいは教えを学んでるときに、もう真剣に、それを根付かせる。
つまり、何度も言うけどさ、こういう教えとの出合い、あるいは皆さんが、心が教えとか真理に向かってるときって言うのは、稀なんです。稀っていうのは、何度も言うけども、「今そうだけど、なくなっちゃうかもなあ」じゃないんです。次の瞬間、全くなくなるかもしれないんだよ。つまり、有無を言わさずなくなるかもしれない。でもそのなくなるかもしれないものを、ちょっと先延ばしにしたりとか、あるいはなくなること自体をなくすることができるのは、今しかないんです。つまり、真理というものに巡り合ってるとき。もしくは心がそれに目覚めてるときしかないんだね。
「いやあ、でも先生、わたしはけっこう適当にぼーっとして修行してましたけども、まだ真理をつかんでる」と。それは、いいですか?――超ラッキーなだけです(笑)。超ラッキーに、その、なんていうかな、光がこう差し込み続けただけであってね。次は分かんないよ。つまり、明日は分かんないよ。明日からもう皆さんは、闇の人生になるかもしれない。でもこれは本当にそうなんです。
で、これはすべて主観的な話なんで、客観的なその、なんていうかな、一般論っていうのは通じない話なんです。もうすべて、完全に、一人ひとりの問題です。一人ひとりの中で、今、目の前にある修行にしろダルマにしろ、真理にしろ、そのチャンスを本当に稀有なものと見て、で、今だけではなくてね、自分っていう存在の全体を、完全にその、闇の少ない存在にしていくチャンスが、今なんだっていうかな。うん。その発想がないと、まあ、なんていうかな、われわれは宝の持ち腐れになってしまうっていうか、チャンスを無にしてしまう危険性もあるよね。
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