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正智の守護

第五章 正智の守護

【本文】

 戒を守ろうと願う人は、努めて心を守らねばならぬ。動きやすい心を守らないでは、戒を守ることはできない。

 発情した野生の象がこの世で惹き起こす災厄は、放任された心の象が無間地獄等で惹き起こす災厄に遥かに及ばない。

 しかし心の象が念(スムリティ)の縄で全く縛られれば、一切の危難は去り、すべての安穏が得られる。

【解説】

 第五章は、「正智を守ること」についての章ですね。
 さあ、どんどん深い部分に入っていきますね。この章も非常にすばらしい内容です。

 正智とは、念(スムリティ、サティ)という言葉とセットで使われることが多いです。二つあわせて念正智とか正念正智といったりしますね。
 この念正智とは、仏教の中核をなすといってもいいくらい、重要な内容なのですが、原始仏典においては大雑把にその概要が語られているだけです。そしてそのより実践的な教えとしては、この入菩提行論の第五章は、すばらしい価値があると思います。

 仏教で念という言葉は、いくつかの意味があります。
 1.記憶すること
 2.四念処(身体・感覚・心・すべての存在に対して、不浄、苦、無常、無我などの観察をし続ける)
 3.今この瞬間に常に覚醒し目覚め、自己観察すること

 そしてこれらは分けられて説明される学術書なども多いですが、私はこれらは実際は分けられないと考えています。

1.まず最初の記憶という意味ですが、この念の修習においては、その前に最初に、正しい教えの記憶が必要であると思います。
 そしてそれは理想としては、頭で記憶するのではなく、心にインプットするような記憶の仕方が必要です。
 つまり受験生がテストのために一夜漬けで記憶するような記憶の仕方ではなく、たとえば好きなアーティストの歌の歌詞を自然にすべて覚えているような記憶の仕方が重要なのです。
 それにはまず経典などをしっかりと何度も繰り返し読むことも必要ですし、その意味を考えたり、自分に当てはめてみたりすることも重要ですね。

2.そしてその記憶した教えに基づき、常にこの世の中や自分自身のことを観察し続けるのです。そしてその観察の仕方の大きな柱となるのが、四念処なのです。
 つまりこの身体というものがいかに不浄であり無常であり苦であり実体がないか、感覚がいかに無常であり苦であり実体がないか、心がいかに無常であり苦であり実体がないか、そしてこの世のすべての存在や現象が無常であり苦であり実体がないかということを、繰り返し繰り返し、日々観察をしていきます。
 もちろんこの土台の上に、衆生への慈悲や、仏陀への帰依の心、その他様々な教えを、実際の現象に当てはめて、繰り返し繰り返し心で修習していくのです。
 そしてそれは、まだ我々は悟りを得ていないのですから、あくまでも教学で記憶した内容のアウトラインに沿って観察修習を繰り返すことになります。つまり正しい教えの記憶のインプットとアウトプットの繰り返し作業が必要なのです。そして正しくアウトプットされたものの見方によって、再び深く思索されたその内容は、より深みを持ってまたインプットされます。この繰り返しにより、正観、正しい現象の見方が身についていきます。

 そして三つ目の覚醒した意識による自己観察。これも細かく分類すればいくつかのパターンがありますね。

3-1.心と体の動きを、真理と外れないか観察し続ける。
 たとえばネットなどでも見受けられることですが、普段は崇高なことを書き込んでいる人が、誰かから攻撃されたとたん、いきなり汚い言葉や傲慢な言葉で反論する。
 これがこの経典でいうところの「放任された心の狂象」です。
 あるいはお腹いっぱいなのについ貪って食べ過ぎてしまうとか、つい見栄を張って嘘をついてしまうとか・・・我々は無意識に心に振り回されて犯してしまう悪業というのが非常に多いんですね。それは「しょうがない」のではなくて、念正智の実践が足りないというわけです。 
 ここにおいて自己観察ができていると、たとえば人から馬鹿にされたとき、自分のプライドが傷つけられ、プライドを守ろうとする心がわきあがってくること、そしてそれが怒りという感情に転じ、そこから真理の教えが見えなくなっていき、瞬間的に過去の習性に基づいて何らかの対応策をとろうとし、実行に移そうとする・・・これらのプロセスをつぶさに観察することができます。そしてその途中で「ストップ」をかけることができるのです。つまり心の狂象を放任せず、念という縄で縛り付け、コントロールするのです。
 実生活における実践的な念正智としては、この項目こそが最も重要なことです。 
 もう一度簡単にまとめると、自分の心の働きと無意識に行動に移るプロセスを常につぶさに観察し続けることで、悪しき心、悪しき言葉、悪しき行為の連鎖を常に止め続けるのです。
 そしてできれば真理の発想、真理の言葉、真理の行動を常に行ない続けるのです。

3-2.心の仕組みへの正観

 これは2の四念処の「心念処」とも関わってきますが、3-1とは違い、それが真理であるかどうかなどとは関係なく、ただ日々の心の動きを観察していきます。それによって心の仕組みの理解を深めていきます。
 ここでいう心の働きの観察というのは、「ああ、今こういうことを考えている」とかいうことではありません。どのようにイメージが生まれ、どのように感情が生まれ、どのようにそれが収束し・・・といったことをつぶさに観察し続けるのです。

3-3.心、感覚、エネルギー、肉体への正観

 これも四念処と関わってきますが、四念処の場合はある程度のアウトラインの教えがありますが、そうではなくて、たとえばどのように意志が生じ、そこからエネルギー(プラーナ)が動き、肉体が動かされているのかとか、外界の刺激と、感覚器官と、それをつないでいるプラーナと、それを認識し価値を与えている心との関係などを、つぶさに観察し続けるのです。
 つまり我々はこれらを「ほっといている」あるいは「レッテルを貼り」、日々を生きています。悪い意味で無作為に日々を生きているのですが、それは実際は無作為ではなく、心の習性として、誤ったレッテルをすべての現象に貼り、生きているのです。
 たとえば味覚などは、舌や歯の刺激にすぎません。「おいしい」というのはレッテルです。ではなぜ、その食べ物が噛まれ、舌に触れ、おいしいと感じるのでしょうか? そのプロセスにおける肉体、感覚、プラーナ、意識の働きはどのようなものでしょうか? それらを観察し続けることで、無明の生起を弱めていきます。なぜなら経験によるレッテルこそが、無明の正体だからです。

3-4.心の本質に覚醒し続ける

 実は自己観察を続けていくと、3-3で書いたようなことも超えてしまいます。つまり真実には段階があるのです。プラーナの動きとか心の仕組みとか、3-3で観察されることも真実なのですが、それよりももっと深い真実があるのです。それはここで書くことはできませんが、心の本質、すべての本質といっていいでしょう。そこに常にアクセスし続けるのは強烈な集中力が必要ですが、完璧とまではいかなくても、これに近い意識状態を常に持ち続ける事はできます。この状態では、別に意識しなくても、悪しき思いや悪しき行為等は生じようがないのです。
 しかしこれにも、「本当はそうなっていないのにそういうフリをしている」という心の偽善が入り込む危険性があります。だから一番最初の教えの学習、記憶、その教えに基づいて生きるという基礎がないと、危険ですね。その基礎の元にこの訓練を行なえば、大きな恩恵があるでしょう。

3-5.高度な世界を修習する

 我々はこの世の観念、概念で生きています。よって自己観察をするときも、その観念をベースにしているわけです。もちろん、3-4に書いたような境地に達すれば、その観念も消えるわけですが、それもなかなか難しいことです。
 この3-5のやり方においては、より高度な観念によって自己と世界を見るのです。たとえば「私は菩薩である」「私は修行者である」ということを常に意識し続けるとか、あるいはバクティ的に「この世のすべては仏陀(神)の愛である」とか、「私は菩薩として、一挙手一投足を振舞わなければならない」とか、そういうことですね。 
 この考えを発展させて、密教においては、自己を仏陀の化身と観想したり、この世のすべてを仏陀の浄土と見たり、すべての音を仏陀のマントラであると捉えたりします。しかしこれらの修行をするには、指導者の適切な指導が必要ですね。
 しかし簡単な意味では、これらのことをすることはできます。常に自分は修行者であり、菩薩であるという自覚の元に、考え、語り、行動するのです。つまりこの場合は、「菩薩・修行者」という念の縄で、心の狂象を縛り続けるわけです。

 そしてこのように心を正しい念で縛り、コントロールすることこそ、「ヨーガ」という言葉の原義でもあります。

 

【本文】

 トラ、ライオン、象、熊、蛇、すべての敵、すべての地獄の獄卒、鬼女および羅刹――これらすべては、ただ私の心一つが縛られれば、すべてが縛られる。そして私の心一つの調御によって、すべては調御され終わる。

 なぜなら、すべての危難および類なき苦しみは、ただ心より生ずると、真実を説く人(仏陀)によって説かれているからである。

 地獄の刃は誰が努力して作ったか。地獄の熱い鉄の床は誰の作か。また地獄の魔女はどうして生まれたか。

 これらは皆、自分自身の悪心より発生すと、聖者は唱えたもうた。それゆえ、三界において心より他に恐るべきものはない。
 

【解説】

 ここもまたすばらしく、また面白い一節ですね。
 この辺は非常に唯心論的ですね。つまりこの世で経験するあらゆる喜びも苦しみも、すべては自分の心が作り出した幻に過ぎないんだと。
 たとえば我々は悪業によって地獄に落ちると仏教では説きますが、その地獄の具体的な描写が、原始仏典にも大乗仏典にもいろいろ載っています。たとえば獄卒に刀で切られるとか、熱い鉄板の上で焼かれるとか・・・。
 しかし、たとえばその地獄の刀を作る技師などが存在するのでしょうか(笑)? あるいは地獄の鉄板を作成する業者などが存在するのでしょうか(笑)? 存在するかもしれませんね(笑)。でも存在したとしても、それも幻です。
 それは地獄という世界の話だけではなく、我々が普段現実だと思って認識しているこの人間界においても同じことなのです。すべては心が作った幻です。
 そして悪心によってすべての苦しみが生じ、良き心によってすべての至福が生じます。
 よって、三界、つまりすべての世界において、最も恐ろしいのは、閻魔様でも、悪い王でも、テロリストなどでもありません。最も恐ろしいものは「自己の悪しき心」なのです。

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