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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第10回(2)

◎事実、真実、真理

 で、後半は結構分かりやすいね。後半はこれは何を言ってるのかというと、この間の『アディヤートマ・ラーマーヤナ』の勉強会でも同じようなのが出てきましたね。つまり、如来ってなんなんだって話なんだね。如来ってなんなんだと。
 あのね、ニルヴァーナっていわれるものは、これは言葉の原理から言うと、「炎が滅する」。炎が消えていくようなことをニルヴァーナっていうんですね。で、じゃあ炎が消えるってなんなんだと。つまり輪廻の炎が消えることなんですけども、いや、その消えた世界ってなんなんだってなるよね? 
 で、もう一つ、如来っていうのは――つまりタターガタ、あるいはバガヴァーン。ヒンドゥー教では至高者のことバガヴァーンって言いますけども、仏教では如来のことをバガヴァーン、もしくはタターガタって言うんだね。この修行を完全に完成した者――完全に完成したっていうのは、もちろん個人的なただ煩悩なくしたとかじゃなくて、つまりもうヒンドゥー教的に言えば、もう至高者と合一したぐらいの境地です。あるいは至高者そのものです。この最終的な完全な完成者。まあヒンドゥー教で言えばクリシュナみたいな。まあ仏教で言えばお釈迦様みたいな。そういう存在っていうのは、いいですか?――なんなんだと(笑)。
 なんなんだっていうのは、当然われわれの――もう一回言うけども、この二元性の目、二元性の頭からは絶対とらえられるもんじゃないんだね。あるいは理解できないはずなんです。理解できないから、「なんなんだ?」で、まずはいいです。なんなんだっていうのは、「なんだ」って、もしわれわれが言えるとしたら、それはすべて間違いです。
 だからもう一回言うけど、『般若経』とかにはそういうことがいっぱい書かれてる。「如来はこれではない、これではない、これではない……」。なぜかと言うと、まあジュニャーナヨーガ的ですけどね。全部言葉にした段階で間違ってる。例えば、「如来は完成者である」と。「完成ってなんですか?」と。ね。完成っていうのは人間の、その未完成っていう前提があって、それが未完成でなくなりましたよっていうその概念にすぎない。完成ってそれはただの言葉でしょと。如来は智慧の持ち主であると。智慧ってなんですかと。それは無智っていうものを前提にしてててね、とか言うと、もうちょっとこう如来を究極的に表わすものって何もなくなってしまうんだね。でももちろん何もないわけじゃない。何もないわけじゃなくて、でもわれわれの概念ではとらえ切れない、その絶対なる境地っていうか、存在があるんだね。
 だからこれはまず、さっきも言ったように、矛盾するような言葉でなんとかそれを表わすしかないんですけども。でもその言葉ではとらえきれない、如来とかバガヴァーンっていわれる存在があると。
 で、それを、でもわれわれは、ある意味では認識してる。例えば、お釈迦様や、あるいはクリシュナ。あるいはラーマもそうだし、あるいはラーマクリシュナもそうかもしれない。ああいう方々っていうのは、まあ一応歴史上で実在が確認されているのはラーマクリシュナが一番近いですよね。じゃあラーマクリシュナを例にとった場合、ラーマクリシュナって実は写真もあるし、いたじゃないですか。でもラーマクリシュナがもしタターガタ、バガヴァーンだとしたら、当然その、なんていうかな、われわれと同じような存在とはちょっと違うんだね。でも、いたじゃないですか。これなんなんだって話なんだね。これがここに表わされてる、「たとえば太陽がすべての器に映し出され、光を放っても、その器が壊れたり、水が空になったりすると、太陽の映像は現われない。同様に、器がない人には如来の太陽が入ってきても光が現われないのであって、如来の太陽自体が損なわれているのではない。衆生の器の水が濁らなくなったとき、如来の太陽の映像が、光を放って映し出されるのである。」云々ってあるね。
 あの、つまりこれは何を言ってるのかって言うと、例えばこの太陽があって、ここにね、器っていうか例えば洗面器みたいのがたくさんあると。ある洗面器は、つまり濁ってると。濁ってるっていうか、例えば泥水だったとするよ。うん。完全な泥水だったとした場合、当然そこに太陽は映らない。ある洗面器は、まあ非常にこうきれいな水であって、そこに太陽が普通にきれいに映るかもしれない。ある洗面器はある程度透明なんだけど、色がついてるかもしれないね。そうするとその、形はきれいに映るけども色が間違った形で映るとかね。あるいは、ある洗面器は波立ってると。その場合は太陽っていうものは、非常にこうユラユラしたものとして見えると。でも、太陽は一つですよね? 太陽っていうのは不変であると。この例のパターンね。そして、ある洗面器には映らなくて、ある洗面器には映ってるわけだけど、でも太陽っていうのはずっとある。映ろうが映るまいがあるわけですよね。で、これは例えですけどね。これが如来。
 つまり如来っていうものは、われわれがそれを認識しようがしまいが、われわれの、その、なんていうかな、思い計らいを越えた境地で、常にあり続ける。じゃあそれがある人の前には現われ、ある人の前には現われない。あるいは、ある人はそれを理解でき、ある人は理解できない。ある人はそれに信を持ち、ある人は信を持てない。全部こっち側の条件だっていうことなんだね。。
 あるいは、どう現われるかも同じです。これは『アディヤートマ・ラーマーヤナ』で――これはパールヴァティーがね、パールヴァティー女神がシヴァ神に質問したわけですね。つまり『ラーマーヤナ』を見ると、まるでラーマっていうのは普通の人のように、例えば奥さんのシーターをさらわれてすごい泣いたりとか、あと弟のラクシュマナが重傷を負って、「お前がいないと生きていけない!」ってこう泣き叫んだりとか、いろんな、ちょっと悩み多き人間みたいに描かれてるんだね。うん。
 で、「なぜ至高者ラーマが、あんな感じになってるんですか?」と。つまり、ある学者たちは、「いや、至高者といえども、ね、人間の姿をして生まれて、自分が至高者だと気付くまでは無智の影響下にあったんだ」って言う人もいると。「それは本当なんですか?」ってパールヴァティーが質問したら、シヴァ神は、「そんなことはない」と。つまり、「至高者は最初から完全である」と。でも、みんなの見る側のカルマっていうかな、見る側に合わせてっていうか、意識的に合わせてるわけじゃないんですけども、こっち側の受け手側によって、ラーマがどう見えるかが変わってきちゃうんだね。
 つまり人間界のある一定のカルマがあって、ある限定された人間界の知恵の中では、ラーマはそういうふうにしか現われられなかったんです。そのような例えば人間的な情を持った存在としてしか、まあ存在できなかったっていうよりは、認識されなかったんです。
 例えばですよ。超また変な言い方すると、その中で大聖者が一人混じってたら、多分違う人生としてラーマを見てますよ。「え? ラーマ、泣き叫んでないですよね」と。ね、こうなるかもしれない(笑)。「ラーマなんで泣き叫んだんですか?」――でもその大聖者は、「え? 泣き叫んでないじゃん」と。ね。つまり、真実っていうのは一つではない。まあ――っていうかね、これは言葉の問題になっちゃうんだけど、事実っていうのは一つではありません。真実っていうのは、そうだな、一つじゃないんだけど、まあ事実よりは多様性は少ない。で、究極の真理っていうのは一つです。究極の真理っていうのがあって、その究極の真理があらわす、真実のいくつかの多様面があって、で、さらにわれわれのけがれたカルマに反映されて、われわれが見てるのが――いいですか?――事実ってやつです。だからこの事実っていうのはもっとも価値が低い。
 どういうことかっていうとさ、さっきの話じゃないんだけど、例えばY君、昨日サンマ食ったとするよ。で、それは例えばわたしが、「Y君、何食った?」って聞いて、「サンマ」って答えたと。Y君にとって多分それは事実だとするよ。でもわたしがさ、「ハンバーグだろ?」って言ったとするよ。「いや先生、サンマですよ」と。「ハンバーグだろ?」と(笑)。「サンマですよ。」「ハンバーグだろ?」ってやってるうちに、Y君どうでもよくなってきて、「ハンバーグです」って言ったとするよ(笑)。「ハンバーグなんですよ」って言って、「やっぱハンバーグだよなー」って言って、「ハンバーグっておいしいよな」って話してるうちにY君、なんかハンバーグだったような気がしてきたとするよ。例えばですよ。で、昨日は例えば奥さんもいなくて、一人でサンマ食ったと思ってたとするよ。でもわたしが「ハンバーグ」って言って話してたら、ハンバーグのような気がしてきたとするよ。「あ、なんかハンバーグだったかな?」って言ったとするよ。この時点でさ、「じゃあなんだった?」ってなるよね。今言ってること分かる? なんだったんだ、と。じゃあ、と。つまり、ないんです、実体は。うん。この時点で逆に言うと、その、Y君が昨日サンマを食ったっていう、その非常に固まったリアリティみたいなのは崩壊してるんだね。まあもともとないんですけどね。もともとないんだけども、この例えは、ここでもしY君が「あれ? ハンバーグなのかな?」って思った時点で、その事実は崩壊する。まあ、もちろんさ、現代ではビデオとかなんかいろいろあるから(笑)、それによってこう――あのさ、つまりこれは、例えば現代はビデオがありますと。これは皆さん、今の話聞いたら分かると思うけども、つまりこれによってわれわれの迷妄は、より固まっちゃったんです。だってここでビデオがあったら、あるいはカメラがあったら、「いや先生、昨日、だってデジカメで撮りましたから」って言ってサンマ見せられるかもしれない。そうするとわたしも、「あ、まあそうか」と(笑)。

(一同笑)

 「あ、ごめん」と(笑)。これでサンマ幻影というか、サンマを使った悟りのプロセスはもう駄目になる。うん。つまりその、昨日サンマ食ったってことが、なんていうか、非常に固いリアリティとして固まっちゃうんだね。うん。
 でも、もう一回言うけども、ちょっとこういう話をしていると、ほんとみんな頭おかしくなってくるかもしれないけど、一切の事実はないっていうかな。うん。事実はないっていうか――だって、だってこの瞬間だってですよ、幻影なんだよ。この瞬間が幻影なんだから、昨日がもっと幻影なのは当たり前ですよね(笑)。 
 この瞬間皆さんが、例えばさ、わたしがね、例えばAさんの頭から熱いお茶かけてね、Aさんが「熱いです!」って言って、「幻影です」ってわたしが言ったとして(笑)、「いや、それは教えとしては分かるけど、でも熱いです」――これは分かりますよね。だって現実として、現在わたしのカルマとしてまだそれを熱いと感じてると。幻影だって言われても熱いですと。でもまあ幻影だと思わなきゃいけないんだけど。でもそれはまあ、現在に関してはちょっとなかなか難しいわけだけども。でもその「昨日」なんてのは――いつも言ってるように、わたしは結構いい加減な人間だったんで、逆にこの教えは非常に理解しやすかった。うん。いい加減な人間だったっていうのは、まあいつも言ってるけど、あの、占星術で言うとね、獅子座の人って結構いい加減なんだね。いい加減っていうか、ポリシーがないっていうかな。うん。つまりその、まあまさに今言ったような話でね。なんかそうだったように思えてきちゃうっていうかな。うん。まさに今言ったように、「昨日サンマ食ったと思ってたけど、ハンバーグだったような気がするな」と。まあ、つまりどうでもいいんだね(笑)。結構いろんなことをどうでもいいって思ってるから(笑)、昨日ハンバーグって言われて、なんかハンバーグだったような気がしてくる。うん。あとポリシーも結構ないんだね。なんかこう、「こうじゃきゃいけない!」ってこう主張してたとしても、誰かから「こうだ、こうだ」って言われると、「あ、やっぱそうだよね」ってこう思えちゃうとかね。
 あるいはね、そうだな、現実もまさにそうなんです。今のハンバーグじゃないけども、まあ例えばわたし、子供のころよくあったんだけど――ちょっと妄想家だったのかな、わたしも。例えばちょっと具体例は忘れたけど、ちょっと曖昧な例で言うとね。例えば遊園地に行きたいって子供のころ思ってたとしてね、「遊園地行きたいな、行きたいな、行きたいな、行きたいな、行きたいな」って思ってて、一カ月後くらいになんか行った気になってるんだね(笑)。夏休みに行ったような(笑)。で、なんか満足しちゃってて、なんとなく思い出があって(笑)。でもリアルに計算とかいろいろしてみると、「そんなわけないだろう」みたいなのがあって。そういうちょっといい加減な子だったね、わたしね(笑)。だから逆にちょっと分かりやすかったっていうか。すべての幻影性っていうものがね。
 もう一回言うけども――で、ここでちょっと頭の固い人がいると、「え? でも現実は現実ですよね?」と。現実は現実で、その現実が、なんていうかな、まあ、実体性がないっていうとらえ方ね。で、それを、まあ現代の仏教とかではすごくこう薦めるんだね。で、これはこれでかまわない。なぜかっていうと、哲学的にはそういう説き方するしかないから。哲学的には、例えば、われわれが目に見えてるものがね、実体があるとは言えませんよ、と。さっきも言ったように、例えばそれはただの名前であって、あるいは概念であって、何もその名前は表わしていないとかね。いろいろ言えるわけですけども。でも本当はもっとストレートなんです。すべては幻っていう意味っていうのは、もっとストレートなんです。本当に幻なんです(笑)。うん。例えば昨日サンマを食ったのは事実だけども、でも事実だけども、サンマを食べたっていうその現実にどれだけの真実があるんだろうっていう説き方をするんだけど。なぜかっていうと、そうでないと普通分かんないから。でも本当のこと言うと、昨日サンマ食ってないんです(笑)。これがリアリティなんです。で、こういう感じでどんどんこう、なんていうかな、崩壊させていくんですけど。
 ちょっと話を戻すと、もともとわれわれは、ね、いつも言うように、麻薬患者のようなもので、それぞれがそれぞれの幻を見てる。で、いいですか?――あのさ、つまり、これもよく出す例えだけども、例えばY君が麻薬中毒だとしてね、幻影を見てる場合、そこでわたしが仏陀だとするよ。仏陀だとして、「さあ、Y、目覚めよ!」って頭叩いたとするよ。当然Y君はある幻影の中にいるから、つまり、わたしが仏陀だとして、仏陀が頭を叩いたっていうふうには見えないわけだね。その幻影の中の都合のいい幻として見える。例えばY君が冒険の幻影を見てたとしたら、頭を叩かれたときに、上から岩が落ちてきたっていうふうに見えるかもしれない。岩がガーンと頭に当たっちゃったと。「うわーっ、山登りしてたら岩が当たった!」って思うだけかもしれない。で、ほかの人はまた違うふうに見えるわけだね。違う幻影の中に生きてるから。
 これが、ここで書かれてること。つまり、仏陀という存在が目の前にいたとしても、受け手側によって、その存在っていうか、その、わたしに与えてる影響っていうのは全然違うふうに認識されるんですね。
 で、それが、今の例えでいうと、この水が、わたしの心っていうものがけがれていればけがれているほど、まず認識できません。認識できないっていうことは――で、ここにね、書かれてる、仏陀はどっかに現われるんじゃないんだと書かれてるね。つまり、いつもいるんです。この瞬間も、目の前に仏陀はいらっしゃる。しかしわれわれの心が完全に濁ってたら、全く認識できません。
 だからその、これはまあ昔って言ったら変だけども、皆さんも以前はそうだったわけだね。全く仏陀っていうのが認識できない。しかしちょっとずつ浄化されてくると、一部、例えば泥とかそのヘドロとかでね、いっぱいの水だったとするよ。でもそのヘドロの中にもちょっとだけ浄化されてる部分があるかもしれない。そこに、太陽の光がちょっとだけ映る。これが、まあ例えばだけどね、皆さんが生きてて、ふと、「真理ってなんだろうな」って思うと。あるいはふと、「正しい生き方ってなんだろうな」って思うと。これはこういうやつね。あるいはまた別パターンで言うと、ふと何気なく本屋に行ったら、例えばヨーガの本をなんとなく手にしてしまったと。あるいは仏教の本をなんとなく手にしたと。ね。でもその光がまだ弱かった場合、仏教には出合ったけども、さっき言ったような、ちょっと論理をこね回すような、あまりその、本質的ではない本に出合っちゃうかもしれない。でもまあ一応ダルマには出合ったと。例えばね。つまりその、太陽の光、完全なるタターガタの、バガヴァーンの太陽の光を、受け手側が、汚すぎて受け取れなかったために、非常にまあ、頭の固い仏教の本としてまず受け取ったと。例えばね。その人の場合はですよ。
 あるいは別の切り口から言うと、その人は、ね、ある程度、心のきれいさを身に付けていた。しかしある程度濁りがあった。で、その濁りの種類にもよるんだけども、例えばそれが慢心とかプライドとか、あるいはまあ、ほかのいろんなけがれだった場合ね。まあこれはよく言われることですけども、その人の前に仏陀がグルとして、師匠の姿――人間の姿をとった師匠として現われた場合ね。例えばラーマクリシュナみたいに――現われた場合、当然そこに、その人を完全な仏陀として見ることができない。つまり自分の心の投影として、つまりこの受け手側のけがれの投影として、目の前の仏陀を見るわけだね。そうすると、「いやあ、うちの師匠はいいところもあるけど、なんか怒りっぽいんだよな」とか、「いやあ、うちの師匠はいいところもあるけど、非常になんか――さっきのラーマの話じゃないけども――感情的だ」とかね。こう映るんだね。
 この「映る」っていう意味は二つあって、一つは本当に、あの、なんていうかな、こっち側のその、なんていうか、受け手の問題ね。受け手の問題っていうのは、まあ、どうにでもとれると。どうにでもとれるけども、こっちにその煩悩があるから、師匠のこともちょっとこうけがれて見えてしまうっていうのが一つあるよね。
 で、二番目としては、超越的な話なんだけども、まあこれがだから、さっきのラーマの話みたいな話ね。実際に、だって目の前で、例えば嘆いてると。ね。目の前で師匠が怒ってると。これはあの、受け取り方とかじゃなくて、本当に怒ってると(笑)。でもこの怒ってると見える現象自体が、まあ弟子っていうか、その人間のけがれた心の映像であるという場合ね。
 だからこれは非常にこう、分かりにくいんだけどね。でもこういう感じ。――でもその人は、その、なんていうかな、そのようなけがれを含んでいるけども、一応その師匠というところまではたどり着いたと。例えばね。で、これがどんどん進んでいくと、まあ完全なかたちでって言うかな、完全なかたちで、その太陽の光、つまり如来の光を受け取ることができるようになったりとかする。それは例えば、完全なかたちで目の前にタターガタやバガヴァーンが現われたりとか、あるいは自分の師匠が完全なその如来の化身であることに気付くとか、そういう世界なんだね。こういう感じで、だんだんこちら側の、その受け手側がどんどん広がっていくに従って、世界の見え方が全然変わってくる。
 もちろん、最終的にはですよ、最終的には、バクティヨーガで説くように、すべてがバガヴァーンに見えます。これは最終的にね。うん。その取っ掛かりが師匠なんですけど、普通はね。師匠を取っ掛かりにして、最終的に、「あっ、この世界、バガヴァーンしか見えない」と。「バガヴァーンしかいないじゃないですか」っていうのが最終的です。まあ、本当はそれが最終じゃなくて、それが永続したら最終です。永続したらっていうのは、つまりその、あるときはそう見える、あるときはそう見えないっていうのがあるんだね。これは師匠に対しても同じで、あるときは師匠に対して、すごい、絶対の信頼を持ってると。あるときは、なんかちょっと、ねえ、反抗したくなるとかね。いろいろあるよね。これはまさに、その自分の中に、さっき言ったようにヘドロみたいなのがあって、それがあるときはグワーッて開いて太陽が見えると。あるときはグワーッて狭まって、何も見えなくなると。師匠がヘドロに見えると。例えばね(笑)。こういう世界なんだね。うん。

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