「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(3)
【本文】
②空性に専心没頭して、衆生をないがしろにすることは、魔事である。
はい。これも読んだとおりですが、「空性に専心没頭する」って書いてあるね。まあここもさ、問題があるんですが。何が問題があるかっていうと、まず「空性」とはなんなのか、あるいは「空性に専心没頭する」とはなんなのかっていう問題があるんですが、大きく分けると、空性に関しては二つあると考えてください。一つは、これもね、日本の仏教徒たちがそういうのが好きなんだけど、特にナーガルジュナ――龍樹が書いた空性の教えや、その他いろんな空に関する教えを、論理的に書かれたものを読み、あるいはそれを分析し、あるいは議論し、っていうやり方ね。もう一つは、直接的に空を悟ると。
だから空に没頭するっていうのは、この二つの二種類の意味があるね。空に関して頭でいろいろ考える。二番目が、空に没入すると。瞑想によって空に没入すると。
で、一般的には、もちろんその空に没入しなきゃいけないんだけど、しかしその準備として、その論理的に空について考えるのも必要だっていわれています。もちろんそれはそうだと思います。しかし、それは本当に準備としてちょっと考えるぐらいでいいです。空について考え過ぎちゃ駄目だね。あるいはもちろん空について考えすぎて的を外してしまう、ポイントを外してしまう場合もある。それはもちろん駄目ですね。で、もちろん最悪なのは、間違ったかたちで空について考え、理解し、しかもそれを真実だと思い込む。
もう一回言うけども、空の教えというのは言葉では――いつも言うように、言葉では表現不可能です。だから概念的に言葉上で理解するのは不可能なんです。普通はね。じゃあなぜわれわれは空の教えを概念や言葉で学ぶかというと、当然その概念とか言葉でしか学べないから。だから一応その本当の本当の答えのための準備段階として学んでいるにすぎないんだね。だからそういう認識がなきゃいけない。
例えばその、『入菩提行論』にも空の教えがあるし、あるいはパドマサンバヴァの教えとか、ロンチェンパの教えにも空についての教えがありますが、ああいうのを見て、「ああ、自分はまだそれは完璧には理解できないが、でもそのヒントとしてこれはちょっと学んでおこう」ぐらいでいいんですね。でも多くの仏教徒たちは、まるでその自分が言葉上理解した空の考え方のその理解によってね、自分は空ってものを理解したっていうふうに思ってしまっている人が多い。それはもう最悪です。だからそれはここの話以前の問題だね。空に没入しすぎてはいけないっていう以前の問題。没入してない、ただ頭で遊んでいるだけのね、真実だと思っている段階ね。これはだから、皆さんも気を付けてください。
というよりは、わたしのこれは個人的なアドバイスだけど、個人的な皆さんへのアドバイスとしては、そういうのは別にあまり読まなくていいです。この中で、こういう人がいるかもしれない。わたしは――例えば、実際にそういう人がいたっていうわけじゃなくて、例えばの話ね。例えばある人がいて、「いやあ、わたしはね、例えばだけどね、カイラスの勉強会とか好きだし、あるいは例えば『入菩提行論』とかも好きだし、お釈迦様の『ジャータカ』とかそういうのも好きなんだけども、よく聞くところによると、仏教において最も重要な話は空の教えだといわれてるんですね」と。「あのよく説かれている空についての理論とか読むと頭が痛くなってくる」と。「よく分かんない」と。「でも、やっぱり読まなきゃいけないんですよね」と。「じゃあ、頑張って読みます」っていう人がいるかもしれない。そういう人がいたとしたらわたしは、「読まないでいいよ」と(笑)。「無理して読まなくていいよ」と。「っていうか、読まない方がいいよ」って言います。
こういうことを言うと、ちょっと怒られるかもしれない。怒られるかもしれないっていうのは、現代でチベット仏教とかでもそういう空性の哲学を重視するしね。というのは、今、チベット仏教の主流になっているのはゲルク派で、ゲルク派のツォンカパっていう人は、その空性の理論的分析をすごくやった人だから、それがすごく重要視されると。あるいは、その他、今、仏教というものを知性的にとらえようとする人たちも空性の教えが大好きなんで、そういう人たちからみたら、今わたしが言ったことっていうのは怒られるかもしれないけど。でも、わたしの、これはだから経験からくる皆さんへのアドバイスです。空についていろいろこねくりまわしてもしょうがない。空性というのは経験しなきゃいけない。だからその全く予備知識がゼロだったら、全然間違っちゃう可能性があるから、ある程度ほんわかと予備知識をいれておいてもいいんだけど。それはさっきから言ってるように『入菩提行論』にも――『入菩提行論』は第九章が空性の教えですけども、ああいうのあるしね。
だから例えばさ、わたしは皆さんに、そうですね、ここで加行とかもらっている人もいない人もいるだろうけど、一つの加行としてね、これは例えばですけどね、『入菩提行論』を毎日一章ずつ読む。これはとてもいい加行だと思います。これは皆さんやってみるといい。つまり、はい、今日、第一章のところをバーッと読むと。次の日は第二章を読むと。そしたらさ、あれ十章あるから、十日に一回は空が学べるよね。ま、そのくらいでいいです(笑)。十日に一回、空性、なんかよく分からないなと。次の日は回向と。みなさん幸せになりますように。「ああ、これよくわかる」と(笑)。こんな感じでいいです。こんな感じでかまわないんだね。で、それよりもポイントは、よりいっそう皆さんが修行を進め、あるいは日々正しく生きようとすると。こっちの方が全然空に近づきます。
だからそれを前提として考えてほしいんですが、だからまあ、ここでいわれている空への没入っていうのはいろんな意味があると思うんだけど、浅い意味でも深い意味でも、空性に専心没頭する。ね。で、この空性に専心没頭した場合、当然、個人的な意味で、本当の意味で空性に没頭したら、非常に寂静であり、あるいはその人に徳があったら幸せであるし、あるいは、なんていうかな、本来の自分に帰ったような素晴らしい状況があるわけですね。でもそこにあまり浸ってしまうと、なんていうか、人々を救うことはできないし、あるいは人々を救うという菩薩の本分を忘れてしまうと。
だからその空性に――ここで魔事って言ってるのは、罠、もしくは……そうですね、罠と言ったらいい。ちょっとイメージとしてはね、わたしのイメージとしては、そうだな、どういうふうに言ったらいいかな……いろんなゲームとかね、ゲームっていうか、何があるかね……まあ、例えばバスケットボールとかそうだけど、バスケットボールとかで、こうボールを持ってね、ボールを持って――わたしあまりバスケットボールのルール知らないからイメージでなんだけど、ボールを持って、「さあ、どの味方にパスしようかな? さあ、敵が狙っているから気を付けなきゃいけないな」ってボンボンやってる後ろから、そーっと敵が近づいてきて、ボールを奪われると。これと似てるね(笑)。分かりますか? つまり、われわれが例えばシュートチャンスを狙ってる、あるいは味方へのパスを狙っている、この隙に実は魔が近寄ってると。そーっと近寄ってると。で、それにわれわれは気付かない。だって魔どころか、チャンスと思っちゃってるから。「やった、さあシュートだ」と。あるいは「パスだ」と思ってるそこに、実はそーっと近寄ってるんだね。だからイメージはそういう感じなんです。だから自分が修行を進めていると思っててやってるそこに、気付かれないようにそーっと魔が近づいているんだね。「気付くなよ、気付くなよ」っていう感じで近づいてて、いつの間にかバッとボールを奪われる。ここでいうボールっていうのは、われわれの悟りの心、あるいは菩提心であったり、そういったものがバッと奪われてしまうんだね。そういう感覚。
だからここも何を言いたいかっていうと、皆さんがもし例えば空性、もしくはそれに近い瞑想経験をし始めたら、当然、喜びがあるでしょう。「ああ、わたしはより深い瞑想が経験できるようになった」と。「やった」と。これはいいんだけどね。これはいいんだけども、そこに今言った悪魔の罠が潜んでる可能性があるんだね。「さあ、このままこいつを喜ばせて、空だ空だと陶酔させて、こいつの偉大な菩提心を忘れさせてしまおう」と。こういうのが潜んでいる可能性があるということです。だからそのバロメーターとして、「あれ、最近わたしは空だ空だと瞑想できるようになったが、最近、菩提心とか衆生への慈悲っていうのを忘れていたかもしれないな」って思い出したら、「あ、これはもしかしたら魔の働きが来ているかもしれない」と思わなきゃいけないんだね。それがここで言っているところです。ここで言う魔事ですっていうのはね。
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