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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(9)

◎ラーマクリシュナのリーラー

 はい。じゃあちょっときりがいいところで今日はここまでにしますが、じゃあ全体的に何か質問あったら聞いて終わりにしましょう。質問ある人いますか? 

(質問者)いつもありがとうございます。今日のお話の中でラーマクリシュナの癌の話が出たんですけども、ラーマクリシュナの癌っていうのは神の祝福だと思うんですけども、別の見方をすると、ラーマクリシュナの周りの縁のある方たちの悪いカルマを受け取ったかたちであるという理解でよろしいんでしょうか?

 もちろんそれはそうだと思いますよ。
 まあラーマクリシュナっていう方は、そうですね、彼のスタイルっていうのは、表面的には日々自分の部屋にやって来る信者や弟子たちと「わっはっは」と楽しく語り合いながら教えを説くと。まあそれだったんだけど。まあ実際にはね、いろんな弟子の話を聞いても分かるように、いわゆるエンパワーメントというか、エネルギー移入をいっぱいやってるんですね。例えばヴィヴェーカーナンダなんてそうだけども――ヴィヴェーカーナンダだけじゃなくていろんな弟子を抱きしめたりね、抱擁したりとか、あるいは頭に手を置いたりとか、あるいは、そうだな、あるときは言葉だけで、あるいは舌にいろいろ書いたりとかね。いろんな独特の方法で、弟子のその、眠ってるものを目覚めさせていくんだね。そういうのを徹底的にやってるんです。
 まあつまり、ラーマクリシュナのあのときの使命っていうのは、もう全体を見れば分かるわけだけど、そのような教えを説くことと、それから徹底的なエンパワーメントによって、まずヴィヴェーカーナンダをはじめとする弟子たちに種子を植え付けたんですね。で、それだけの膨大な、将来に大きな花を開くような種子を弟子たちに植え付けて、体をボロボロにして死んでいったんです。で、それを受け取った弟子たちが、ヴィヴェーカーナンダを中心とした弟子たちが、一生懸命そのあと修行して、ラーマクリシュナから受け取った種子を開花させてね、で――まあ、何度も言ってるけどね、今世界で最も発展してるヒンドゥー教組織はおそらくラーマクリシュナ教団です。インドでもそうですけどね。日本ではほかにもいろんな有名なヒンドゥーの教団とかあるけども、世界的にいうと全然話にならないんだね。つまりそれくらい、ラーマクリシュナの教えの布教に大成功したわけだけども。それだけの仕事を弟子に与えてね、自分はそのために、もう体をボロボロにして死んでいくっていうのがそのときのラーマクリシュナの使命だったんですね。
 で、ラーマクリシュナに関しては、まあアヴァターラと言われているので、神と同一なわけですけども、でもラーマクリシュナはあの生では、「わたしはアヴァターラだ! 神だ!」じゃなくて、完全に神の信者としてのスタイルをとり続けたんだね。あの、わずかな、例えばヴィヴェーカーナンダとかMとか、わずかな弟子には正体を明かしてるんですけどね。「本当はわたし、クリシュナなんだよ」みたいな感じで言ってるわけだけど(笑)。「あのラーマとかクリシュナとかチャイタニヤとして現われた者が、実はわたしなんだ」ってこっそりは言ってるんだけど。でもおおっぴらには「わたしは神のしもべにすぎない」っていうスタイルをとり続けたんですね。だからそのへんは微妙なわけだけども。つまりその、それは神の意思っていうことはラーマクリシュナの意思でもあったわけだから。でも彼のスタイルは、もう一回言うけど、神のしもべ、もしくは神の息子としてのスタイルだったので、徹底的に――まあそのスタイルの表現とも言えるし、弟子への教育っていう意味でも、多分そのような表現をしたんだと思うね。
 つまり、もう一回言いますよ、「わたしはこの身も心も完全に母なる神に預けてしまったので、自分の病気のことなんてお願いできない」と。ね。もちろん、本当にそのときのラーマクリシュナがそういう状態だったんでしょう。つまり、神のしもべとして、神の息子として、なんていうかな、正直な言葉だったんだと思う。で、それによってわれわれが受ける大きな恩恵ってあるよね。わたしもこれを最初読んだとき、非常に感動した。で、「ああ、そうでなきゃいけないな」って思った。つまり、どうでもいいんです。どうでもいいっていうのは――だって、どうでもいいっていうか、結局全部与えられたものだから。ね。文句言っててもしょうがない。病気にしろそうだし、いろんな環境にしろそうだし、あるいはいろんなよくないことが起きましたとか、全部そうなわけだけども。「わたし預けちゃいましたから」と。今さら、「わたしの体、どうして……」とかね、今さら、「わたしの心ちょっと苦しいんです」とかね、今さら、「今、社会的にこうなんです」とかね、そんなこと言えないわけですね(笑)。全部預けちゃいましたからと。うん。それくらいの、本当の、なんていうかな、帰依っていうかな。
 やっぱりね、ラーマクリシュナとか、ラーマクリシュナの弟子たちっていうのは、みんなも好きな人多いだろうけど、わたしも非常に好きなんだね。で、その好きな一つの理由っていうのは、なんとも言えないんだけども、まあやっぱり本物なわけですね。本物っていうのは、本当にやってるわけです。教えっていうものを本気でやってるっていうか。机上の空論ではなくて、本当にそのまま生きようとするっていうかな。だからそれは本当に偉大な見本になるんだね。しかもそんな昔の人じゃないから。たかだか百年前ぐらいの人だから――例えばお釈迦様とかね、あるいは歴史でも本当にいたのかどうか分からないような古代の聖者っていうのは、ちょっと時代が違うなって感じがするわけだけど(笑)、ラーマクリシュナたちっていうのは本当に近代の人だから。われわれがそれをできないってことはないんですね。うん。
 だからその、ちょっと話を戻すけども、のちの人にその生き方の見本を示すためにっていう意味もあったろうし、あるいはその時代のラーマクリシュナのスタイルとして、その母なる神にすべてを完全に委ねた息子としての境地の表現であったとも言える。しかし同時に、そのラーマクリシュナがそのように弟子のために身をボロボロにして――あの、最期のラーマクリシュナの死の直前も印象的ですよね。死の直前に、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダに触れてね、エネルギーを入れるんです。で、ヴィヴェーカーナンダはすごい衝撃を感じるんだね。グワーッて衝撃を感じて、もう大変革が起きるんです。で、そこでラーマクリシュナはかすれた声で、本当にほとんど聞き取れない声で、「わたしは今、お前にすべてを与えた」と。「もうわたしは一介のみすぼらしい乞食僧にすぎない」と。まあイスラム教でファキールっていうわけですね。ファキールにすぎないと。ただの乞食にすぎないと。つまり聖なるエネルギーをいっぱい持って生まれてきて、みんなにバーってこう「救済!」ってやってたわけだけど、もうほとんど自分の使命が終わりに近付いて、最後の最後で一番弟子のヴィヴェーカーナンダに全部与えちゃったと。もう与えちゃったからほとんどエネルギー残ってなくて。肉体にはね。「もうわたしはただの乞食だ」と。「あとはお前に任せた」と。ね。「しかしお前が、本当に今生の使命を終えるまでは――つまりヨーガやヒンドゥー教の真髄を世界に広めて、人々を救うっていう使命を終えるまでは――このわたしが与えた本当の聖なる真実に最後までお前は気付くことはない」と。「お前が本当にその使命を終えたときに、その鍵が開かされてね、お前は自分の本性に気付くだろう」と。で、「そしたらお前はこの世を去るだろう」と。「だからそれまではこの世の使命のために働きなさい」と言って亡くなっていくんだね。
 だからまさにラーマクリシュナの生涯っていうのはそれだけのためにあったっていうかな。ラーマクリシュナは五十何歳かで死んでるわけですけども、いつも言うように、ラーマクリシュナが弟子たちに、近しい弟子に教えを説いたのは最後の五年間くらいだったんだね。うん。それまではラーマクリシュナのある意味、修行期みたいのがあって、最後の五年間で徹底的に弟子に自分のエネルギーと智慧を分け与えて死んでいったと。まあこれが彼の使命だったとも言えるわけだけど、さっきも言ったようにラーマクリシュナそのものがもし至高者そのものと同じであるとしたら、それもまた彼のリーラーだったっていうことだね。つまりクリシュナがクリシュナのリーラーをしたように、ラーマがラーマのリーラーをしたように、チャイタニヤがチャイタニヤのリーラーをしたように、あれがラーマクリシュナのリーラーだったとも言えるんだね。そのへんはだからいろんな角度で見ると、いろんな意味合いが混ざってて非常に面白い感じがするね。

(質問者)はい。どうもありがとうございます。

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