「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(7)
◎認められないことに満足せよ
はい。「名誉を得意がる」。この名誉っていうのも当然実体がないものだからね。つまり自分が褒められようが、あるいは逆に誤解されようがどうでもいいわけです。ね。まあもっといえば、自分はみんなの犠牲になる、くらいの気持ちでいい。みんなに全く認められず――これもわたしの好きなミラレーパの遺言で――ミラレーパが自分の高弟の一人であるレーチュンパっていう人に遺言をいっぱい残すんだけど、その中で一番最後に彼が言った言葉が、「認められないことに満足せよ」って言うんだね。まあつまり、レーチュンパって結構慢心が強い弟子だったんで、そこらへんもちょっと釘を刺したのかもしれないけども。「認められないことに満足せよ」と。ね。菩薩は認められたいなんて思っちゃいけないんです。あの、自分のグルとか神に自分の努力を供物として捧げるとかね、あるいは自分の誠実さを捧げる――これはいいんだけども、それ以外の人には別に認められなくたってかまわない。すべての人に誤解されたって全くかまわないんです。もし自分一人がみんなから誤解され、あるいは蔑まれることによって、多くの人が救われるならば、あるいは多くの人のメリットになるならば、それこそ菩薩の本望なんだね。
だからその、なんていうかな、心の一番最初の土台みたいなものを忘れないようにしなきゃいけない。これ、やっぱり忘れがちなんだね。
だからこの間のマンジュシュリーの話もそうだけど、今日の話もそうだけど、菩薩とは縁の下の力持ちであると。菩薩とは人の犠牲になってなんぼであると。このような土台を最初学んだとしても、さっきも言ったように、段々修行してると徳が高まってきて、人から褒められるようになったり、あるいは人から好かれるようになったり、いろんなことが起きることによって、それにしがみつくようになるんだね。で、しがみついて、菩薩は犠牲になってなんぼだったんじゃないかなっていうのを段々忘れてくる。あるいは、縁の下の力持ちだったんじゃない?っていうのをだんだん忘れてくる。で、逆にこの現世的な価値観みたいのをもっともっと増大させたいっていうふうにだんだんなってしまうんだね。
だからこれも気をつけなきゃいけない。菩薩にとっては名誉なんかどうでもいい。ね。実質が大事なんです。実質っていうのは、本当に自分が――つまり誰が認めようが認めまいが、本当に自分が本物になればいいだけでしょ? 本当に自分が本当の神の子、神の道具になればいい。あるいは本当に自分がみんなのためになるような存在っていうか、であればいいだけだからね。それを忘れないようにっていうことですね。