「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(14)
はい、そして四番目が「誓いの力」。まあ、これもだいぶかぶってくるけども、菩提心だけじゃなくてね、いろんな細かいものを含めた、いろんな誓いがあるわけですね。「わたしはこれを成し遂げるぞ」とかね。あるいは、「こういう悪業を必ずやめるぞ」とかね。いろいろな誓いを立てるわけだけども、その誓いを一切失敗することなく、心に誓ったこと、決めたことを確実に成就していく力だね。
で、ここはだから逆に言うと、普段からわれわれはそれをやらなきゃいけないんです。つまり、自分のけがれの浄化や、あるいは何かの達成を心に誓って、それを一つ一つ成し遂げていく訓練っていうのが必要なんですね。そういう、なんていうかな、実質的な修行のやり方っていうのはとても大事ですね。なんとなく曖昧に日々修行して、「ああ、このけがれ、いつか取れるかな? まあいつか自然に取れたらいいな」。もちろん、自然に取れるものはあるだろうけども、それではやっぱり力が弱い。あるいは自分が達成できないものに対してもそうだけど。そうじゃなくて誓いを立てるわけですね。「必ずこれはわたしはやめるぞ」と。まあ、何でもいいんですよ。それはもちろん一つ一つでいい。曖昧に「もう、全部けがれ除去するぞ!」――これはこれで最高だけども、それはなかなか細かい配慮ができないだろうから、まずは一個でいい。なんでもいいんですよ。例えば「タバコやめるぞ」でもいいし、あるいは「わたしはすぐ怒ってしまう」と。「一切、怒らないぞ」と。あるいは、そうだな、小さなことで言うと――まあ例えば「わたしはロックが好きで、ロックをいつも聴いてしまうと」。なんか先生に聞いたら、「ロックとか聴いてたら、あんまり修行にうよくないよ」と言われたと。「よし、ロックをやめるぞ」と。「でも、すぐにはやめられない」と。じゃあ――まあ例えばだけどね、「今月は一切聴かないぞ」とかね。もうそれはその人の段階とか能力に応じて、なんでもいいから、自分のカルマの浄化や、あるいはまだ達成できない部分を「必ずここを達成するぞ」っていうのを誓いを立てる。で、それを確実にこなす。全力でこなす。ね。
これも、現代の人っていうのはとても軟弱なので、決めたことを守らないことがあまり恥ずかしくない、あるいは普通になってしまっている。じゃなくて、決めたこと、口に出したことは命を懸けても守るぐらいの心意気が必要だね。そういう意味では、昔の武士道的な精神っていうのは、すごく良かったのかもしれない。まあもちろん武士にもいろいろいただろうけど、理想的な武士ね。
まあ何回かこう話に出てる、チベット仏教の、ちょっと前まで生きていたチュギャム・トゥルンパっていう聖者がいて、このチュギャム・トゥルンパは、「われわれはシャンバラの戦士にならなきゃいけない」っていう話をしている。つまり、単純な社会から離れた聖なる修行者だけではなくて、この世において聖なるものを現実化していくシャンバラの戦士にならなきゃいけないと。で、そのいろんな例を挙げて、「昔の日本の武士道などもそれに通じる」って言ってるんだね。彼はとても日本びいきな人で、日本の華道とか書道とかもやってたんで、武士道の話とかいろいろ学んだんだと思うんだけど。わたしもね、武士とかとても好きだから、言いたいことが分かる気がする。
つまりその――まあ何度も言うけど、ここで言う武士っていうのは理想的な武士ですよ。理想的な侍とか武士が持っているイメージである。本当にもうなんていうかな、例えば自分の使命とか、自分の約束であるとか、そういうものに命を懸けるとかね。もう一切を捨てても主君のために尽くすとか、いろいろあるよね。あるいは常に覚悟を決めていると。まあ例えば、真の昔の侍っていうのは、常に朝、新しい白い着物を着ていくと。それはなぜかっていうと、今日死ぬかもしれないと。で、あるいは今日なにか過ちがあったときに、すぐに自分の命を絶つ覚悟をしていると。まあもちろん切腹がいいことか悪いことかは別にしてね、それくらいの覚悟があると。常に死っていうのを意識している。あるいは――つまりその、自分のなすべきことがなせないようならば、それなら死をとる、ぐらいの覚悟があると。それくらいの覚悟っていうのはやっぱり――もちろん現代ではあんまり社会を生きていく上で必要ないからね、そういうことはもちろん教えられないわけだけども。でも、修行においてはやっぱりそれくらいの覚悟っていうのは必要なんだね。
それくらいの覚悟を持って、自分の誓いを立てると。そしてそれを全力で守る努力をすると。それはさっき言ったように小さなことからでかまいません。で、それによってまあ最終的にはすべてにおいて誓いを立て、すべてを成就させていく力が身につくっていうことですね。