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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(9)

◎あらゆる方法を使ってエゴを駆逐する

 でね、ここに後半に書かれてることっていうのは、ある意味脅しですよね。脅し。こういうものって、仏典に非常に多い。現代のさ、精神世界あるいは仏教の人とかっていうのは、カッコつけが多いので――カッコつけっていうかスマートにまとめたがるので、「仏教は脅しの宗教じゃない」とか言うんだけど、完全に脅しです(笑)。っていうのは、脅して――つまりこれは自分に対する脅しですけどね――自分を脅して、もし自分が変わるんだったらいいじゃないですか、それで。つまりそれくらいわれわれは甘いんです、自分に対して。だから自分の心、エゴっていうものをもう脅さなきゃいけない。まあ脅さなきゃいけないっていうか、あらゆる方法を使ってこのエゴをなんとか駆逐しなきゃいけないんだね。あるいはあらゆる方法を使って、自分の心を調御しなきゃいけないんだね。だからそれは脅しは駄目だなんて言ってられない。
 わたしはね、これも自分の経験、修行経験、それからわたしが指導してきた経験で言うけども、やっぱり今生は特にそうだけど、カリユガだから、スマートに行けません、絶対。理想でね、例えば「いや、こんな脅しなんか使わなくても、ただ神だけ思ってれば」って、これは理想なんだけど、そんなうまくいきません。その教えだけですべての煩悩が消えて……なんてありえない(笑)。あるいはちょっと志を持っただけでパーッていくなんていうのはありえない。やっぱりたまには脅しも使わなきゃいけない(笑)。自分に対してですよ。自分に対して、ここに書かれてるような、「ちょっとこれ破ったら地獄かもな?」とかね。まあそれは事実なんだけどね。「これ破ったらもうおれは地獄に行くかもしれない」とか、徹底的に自分に言い聞かせるんだね。
 だからこの『スートラ・サムッチャヤ』とか『シクシャー・サムッチャヤ』にもよくそういう表現出てくるよね。「これを破るとこういう地獄に落ちる」とかね。もう徹底的にそれは読みこんでください。読みこんで自分の心を脅すっていうか。自分の心に認識させるんだね。で、それによってもしそういう世界から離れられるんだったら、それに越したことはないから。だからこういう表現っていうのは決して悪いもんじゃないっていうか、必要なんだね。特にわれわれみたいなこう未熟な魂にはね。うん。脅しても何してても自分の心を低い世界から引っ張り上げてあげなきゃいけないんだから。だからこういうのも必要です、一つの表現としてはね。
 はい。じゃあ次いきましょう。

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