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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(7)

◎神だけで心をいっぱいに

 はい。ちょっと話が広がっちゃいましたが、もう一回言いますよ。三番目にもっとも大事なことは、恋愛とか性欲にはまってしまうと、その相手で頭がいっぱいなることによって、その自分がその執着してしまった相手と――あと例えば嫉妬とかもそうですよ。嫉妬の場合はその嫉妬の相手とカルマ交換が起きるからね。例えばある人がいて、例えばY君が――まあ嫉妬って怖いのはさ、ありもしないことで頭が悶々なるからね。例えばY子さんがちょっと昔の友達と親しげに話してたらね、「あいつ!」……

(一同笑)

「なんであんな親しいんだ」と。「なんか狙ってんじゃないか」とか(笑)。もう全然そんなことないんだけど、悶々として、で、その昔の友達の男で頭がいっぱいになると。「あいつあの表情はちょっと……なんかある!」とかね。悶々悶々とした場合、その男とY君が混ざり合います。これは怖いよね。だって変な話、今のこの例でいったらね、Y君、その男のこと嫌いなわけですよね。嫌な奴と思ってるわけです。嫌な奴と混じり合うんだよ(笑)。これは怖いところだね。嫌な奴なんだけど、そこでグッと心向けてるから――あのさ、クリシュナ物語でカンサがね、クリシュナを憎んで憎んで憎んだら、クリシュナと合一したっていうのと同じで(笑)、われわれが憎しみであろうが、愛着であろうが、グワーッてこう、頭がそれでいっぱいになった場合、その世界と混じり合うんだね。だからこれは非常に怖いね。
 だから憎しみもそうですよ、さっきも言ったように。「あいつ許せない。許せない。許せない」と思ってたら、その人と完全に混じり合います。
 だからわれわれは煩悩を捨てろって言ってるんだね。憎しみもいらないと。執着もいらないと。ただ神だけで心をいっぱいにしなさいと。ね。シンプルにそれだけでいいと。
 しかしもう一回言うけども、このスワーディシュターナの世界っていうのは、性欲の対象や、あるいは恋愛の対象で頭がいっぱいになってしまうので、そうなるとその世界と自分が混ざり合ってしまう。で、神の入る余地がなくなってしまうので、駄目ですよと。
 これはまあ、説明としては一番大事なことかもしれない。
 はい。だからまあ表面的な道徳的なことだけじゃないっていうことだね、この邪淫はね。
 はい。ちょっと長く話しちゃいましたが、このあとはまあ同じような繰り返しなので、一応パーッと読んでいきましょうね。はい。

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