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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(6)

◎戒律の発想

 で、わたしがね、今言ってる話もそうだし、わたし最近ちょっと思うんだけど、まあそれは皆さんの修行ステージが上がってるからだと思うんだけど、まあカイラスでわたしが話すことが結構厳しくなってる。厳しくっていうか、ハードルが上がってるような気がするんだね。でもですよ、今日の話もそうだけど、まあこのあいだの、例えば「エゴを百パーセント捨てなさい」と。「エゴをゼロにしなさい」っていう話もそうだけども、本来のヒンドゥー教や仏教では当たり前の話です。普通です。当たり前なんです、それが。現代ではなかなかそれが難しくて合わないので、日々そうじゃない世界に今生きてる人が多いので、妥協して説かれてるだけであってね。本来は当たり前の話しかしてない。ここで言ってることっていうのはね。だから今日の話も、そうですね、本来当たり前のことだと考えてください。
 さっき言った話もそうだよ。さっき言った、ヒンドゥー教では、あるいは仏教では、インド社会ではもともと夫婦っていうのは子供を産むためだけの、性的な交渉しかしちゃいけないんですよと。これも厳しい話ではない。当たり前の話なんです。
 で、なぜ当たり前なのかっていうと、こういった戒律とかっていうのは、あるいは宗教的制約っていうのは、まあ前も言ったけどさ、戒律の一つの意味合いを言うとね、ある世界におけるセッティングなんです。ある世界におけるセッティングっていうのは、例えばですよ、動物は――まあ動物の種類にもよるけども――動物は一般的に、さかりがつけば見境なくセックスをすると。そうじゃない動物もいるけどね。そうじゃない動物はあまりスワーディシュターナが強くないのかもしれないけど(笑)。一般的にはさかりがついた、例えば女性が発する発情の匂いとかに――雌が発するね――いざなわれて、雄が雌を追いかけ、見境なくセックスをすると。これが動物のダルマなんです。で、現代みたいに発情し、性欲が出て、見境なくセックスをするっていうことを人間がやってたら、これは来世動物に生まれるための戒律っていうことになるんです。「はい。あなた、『動物ヨーガ』やりたいですか?」と。ね(笑)。動物ヨーガ。「じゃあまず、見境なくセックスしてください。」「来世必ず動物に行くでしょう」と(笑)。だから逆に言うと、動物に行きたくなかったら、見境ないセックスはやめてくださいと。
 じゃあ、人間のダルマはなんですか?――これも何回か言ってるけど、人間のダルマっていうのは、まあちょっと分かりやすく言うと、人間的な友愛、あるいは純愛、あるいは愛情の世界です。人間的なって言ってるのは、動物的な愛情ととても混同されやすいんだけども、人間的なっていうのは、例えば利害の絡まない友情とかね。あるいは男女関係の場合も、一途な、性欲とかじゃなくて、本当に相手の幸せを願った恋愛とかね。あの、ここでなぜこれが人間界に限定されるかって言うと、真の慈愛だったら、「すべての魂」になるんです。真の慈愛の場合は、「すべての魂が幸せになってくれ!」っていう強烈な慈愛なんだね。で、人間界の場合は限定的慈愛なんです。限定的慈愛っていうのは、仲間に対する私心なき思いとかね。私心なきっていうのはいいことでしょ? つまり仲間に対して犠牲になると。これは素晴らしい。でも敵に対しては犠牲にならない。当たり前だけどね。あるいは「自分の愛する恋人のためだったらわたしは死んでもいい」と。ね。まあもっと言えば、「わたしの好きなあの人と別れることによってあの人が幸せになるんだったら、別れましょう」と。これが人間的慈愛です。でもほかの人のことはどうでもいいと。ね(笑)。だから限定的なんだけど、でも慈愛に近いような感じがある。これが人間界の世界なんだね。
 だから人間界のダルマっていうのは、性欲に溺れちゃいけないんです。限定的ではあるけども、その自分と縁のある人達を心から愛する。あるいは幸せを願うと。これが人間のダルマなんだね。だから最低限人間でいたかったら、そこは守んなきゃいけない。
 で、もちろん神となったら今度はもう厳しくなるわけだね。まず例えば、神はもちろんセックスをしない。低い神はするんだけどね。高い神に生まれようと思ったらセックスをしませんと。あ、じゃあ性的なものは一切駄目ですねと。もちろん殺生も盗みも嘘も綺語も両舌も全部しませんよと。「あ、そうか」と。じゃあそこに心合わせるしかないと。あるいは、行動を合わせるしかないと。合わせることによってその世界にシフトしようとするのが、まあ一つの戒律の発想なんだね。
 だからもう一回言うけども、これは当たり前の話だと思ってください。で、当たり前の話って何を言ってるのかっていうと、法則っていうのは変わらないから。法則変わらないっていうのは、時代が変わっても太陽は東から昇り西に沈む。これは変わらないでしょ? これと同じで、時代が変わっても――例えば、「現代は時代が悪くなったから、動物界のカルマちょっと変えましょうか」とかね、「天に行くカルマをちょっと弱めましょうか」とかありえない。法則はずーっと変わらないんです。法則はずーっと変わらないから、われわれの、この意識が下がった時代で妥協っていうのは許されない。うん。「ちょっと現代は大変な時代だから、まあここまででいいよ」みたいなのは許されないんだね。現代でも同じようにわれわれは古から言われてきた――だからサナート・ダルマって言うんですが。永遠のダルマっていうわけですけども――永遠のダルマとされるこの法則に心を合わせて――もしですよ、神に行きたかったらだよ、あるいは人間界以上に生まれたかったら、あるいは来世も修行者や菩薩として、神のしもべとして生きたかったら、法則通り生きるしかない。そこに心合わせるしかないんだね。それが苦しいと感じる、それがきついと感じるのは今われわれが落ちてるからです。本当は全然きつくないんです。もし皆さんが、本来皆さんが持ってる純粋な修行者としての、菩薩としての意識がパッと目覚めたら、楽々です(笑)。こういった教えで説かれることっていうのはね。っていうかそれが当たり前になるから。
 だから決して妥協した思いっていうものを、まあこの今日の話だけじゃなくてね、いろんな法に対して、教えに対して持ってはいけない。
 もう一回言うよ。もし自分が教えや法を、「厳しいな。ちょっとどうなんだろう?」っていう思いが出るとしたら、今自分は落ちてると思ってください。意識が落ちてるんだと。あるいはカルマが落ちてるんだと。だからそれは努力して引き上げなきゃいけない。
 ――っていうのは、皆さんがこういう教えに出合った、修行に出合ったっていうこと自体が、皆さんが本来は、もっとね、それが楽々できるような純粋な魂であるっていうことを表わしてるわけだから。だからそれをしっかりと自負を持って、今いろんなカルマによって落ちてしまった自分をしっかりと引き上げると。それをちゃんと努力したらいいね。

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