「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(10)
◎真の満足
【本文】
◎不浄観
プラセーナジットパリプリッチャーには、こう説かれている。
「大王よ、あなたは、無常や死や、すべては滅するということを瞑想されよ。
貪欲にとらわれたり、嫌悪や、怒りや、妄想による迷妄を根絶されよ。
あなたの生命や健康を楽しむことに自負心を持ってはいけない。なぜなら、貪欲の対象を得ることや、貪欲の対象を獲得し、集積し、蓄積し、それらを使用しても、人の貪欲は尽きることがないから。貪欲によって貪欲を超えることはできない。
真の満足は、聖なる叡智を通して実現されるのである。
そして、人はその肉体に関して、不浄観を瞑想すべきである。」
はい。ちょっとね、時間がだいぶ過ぎたのでパーッと軽く説明しますが、
「無常や死や、すべては滅するということを瞑想されよ。貪欲にとらわれたり、嫌悪や、怒りや、妄想による迷妄を根絶されよ。あなたの生命や健康を楽しむことに自負心を持ってはいけない。なぜなら、貪欲の対象を得ることや、貪欲の対象を獲得し、集積し、蓄積し、それらを使用しても、人の貪欲は尽きることがないから。貪欲によって貪欲を超えることはできない。」
これはね、ヒンドゥー教でも同じような――『マハーバーラタ』でも同じような話が出てくるね。つまりこれは一つの大いなるテーマであるんだね。大いなるテーマっていうのは、つまりわれわれは欲望に対しての飢渇がある。飢渇ね。つまり、これをしたい、あれをしたい、あれが欲しい――で、この方向性として、それを捨てればいいのか、満たせばいいのかっていう話があるんだね。で、満たす方向でいった場合、終わりがあるのかっていう疑問がある。で、そこでヨーガや仏教が提示してるのは、終われないって言ってるんです。つまり、これが「貪欲によって貪欲を超えることはできない。」と。
われわれの中になんかそういう発想があるわけですよね。ちょっとこういう欲望が出ちゃったら満たしちゃった方がいいんじゃないか?――と。確かにそのときは、さっきのわたしの性欲の話の例えのようにね、性欲が出ちゃって満たしちゃえば消えます、一時的に。でも潜在的には増えます。自分の中の性的カルマっていうのはより増大する。で、次また出やすくなるんだね。で、これはもうきりがない。
あるいは物質的な物なんてそうだけども、われわれはこの世においては、いいですか?――完全に満足するっていうことはありえません。なんか欲望追い求めてね。でもここにね、秘密があるんです。この世において完全に満足することはありえないっていうことは、つまり、この世にはわれわれの真に心が求めてるものはないっていうことです。で、じゃあなんなのかっていうと、ここに書かれてるこの表現では、「真の満足は、聖なる叡智を通して実現されるのである。」って書いてあるね。つまりわれわれの心の本質っていうか、われわれの本性が本来求めてるのは、まあヨーガ的に言うならば、われわれの本性に帰ること。つまり真我とか、あるいはブラフマンの境地に帰ることでしかないんだね。で、この真我とかブラフマンっていうのは、まあヨーガ的な言葉使うと、「サット・チット・アーナンダ」――つまり、「純粋なる完全なる実在であり、そして智慧であり、歓喜ですよ」と。で、この純粋なる完全なる歓喜、これを錯覚したかたちでわれわれはこの世の喜びを求めてるんだね。で、この世の喜びっていうのは全く純粋なる歓喜とは比べ物にならない、限定的で弱く儚いものにすぎないから、われわれはそれでは全く満足できないんだね。だから心のベクトルを変えなきゃいけない。
で、皆さんの場合は良いカルマによって、真我とかブラフマンとか、神の世界に向かうベクトルを持ち始めたわけだから、それはしっかりとこういった教えを学んで、自分で心構えをしっかりと確定させたらいいですね。うん。
わたしが生きる道――つまり人生短いわけだから――自分の人生の時間やエネルギーをどこに使うのかと。「そうだ! 百パーセント、わたしは神に向かおう」と。あるいは、終わらない幸福、完全なる純粋なる歓喜にのみ心を向けようと。それ以外のものはすべて捨てようと。このまあ、心構えが必要だね。
はい。で、ここからちょっとつながる感じで、肉体に関して、不浄観を瞑想すべきだっていって、次から不浄観の話になりますね。じゃあここまでちょっといってみましょうね。