「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(15)
はい。「怠け者には精進させる。」(笑)。これ、このままだけどね(笑)。怠けてる者がいたら、「頑張れ」と(笑)。
(一同笑)
ね。「全力でやれ」と。――あの、そうだな……もちろん、いろんな状況はあるからね、段階的でもちろんかまわないんだけど、まあ精進させると。
まあ、ちょっと大ざっぱな言い方するとさ、それが愛なんです。「愛ってなんですか?」っていった場合ね、まあいろんな表現ができると思うよ。今、一つ表現言いますよ。「愛とは何か?」と。その相手を限界まで修行させることです(笑)。これが愛なんだね。限界まで修行させる。うん。もう極限まで(笑)。それが愛なんです、言ってみればね。
はい。「心が乱れている人には禅定をさせる。」――これはだから、瞑想っていうのは、禅定っていうのは心が寂静の状態なので、乱れてる人にはその寂静への道を教えて、瞑想に入れさせると。
はい。そして「悪知恵を持つ人を見たときには本物の智慧を持つように勧める。」――はい。悪知恵っていうのは、もちろん本当にね、相手を陥れるような知恵とかだけではなくて、現世的な知恵とか全部そうですね。この世をうまく渡っていくような――まあ皆さんもそうかもしれないけど、わたしもよく、子供のころとか若いころとかいろんなことを聞いた。聞いたっていうのは、友達からも聞いたし、あるいは本とか漫画で読んだりとかね。つまり社会を渡っていくにはこういう考え方じゃなきゃいけないんだよとか。まあだからわたしは仏教とかヨーガとか学んでたから、そういう、すごくストレートな誠実な道も学んでるんだけど、一方では「いや、それは理想であって、この世ではこういうふうに思わないとやっていけませんよ」とか、いろんな、そういうことを聞くわけですね。あるいは、実際その宗教家とか、仏教家とか、ヨーガ行者でも、そういう人もいる。つまり、ヨーガとかやってるんだけど、でも現実的にはこういうふうに考えた方がいいですよとか。で、わたしは、小さいころからそういう仏教とかヨーガを学んでたんだけど、小さいころからそういうのもやっぱり入ってきて、よくね、迷ったことがあった。うん。それはつまり、仏教とかヨーガの教えっていうのは理想論にすぎなくて、やっぱりこの世を渡っていくのはある程度ずるがしこくね、ある程度うまくやんなきゃいけないのかなっていう気持ちもあったんだけど、まあやっぱり、修行進めていろんな修行における達成をいろいろ経験していくと、やっぱりそれは全部間違いだったって分かる。「最後は真理が勝つ」と(笑)。ね。つまり、この世でいろいろ言ってる悪知恵っていうかな、その場限りの知恵っていうのは、まあ分かると思うけど、非常に限定的なものなんだね、うん。もちろん最後には死んだら終わるものだし、あるいは一時期の、非常に短いタイムスパンの中でうまくやるための教えであって、本質的にその人の魂であるとか、本性にアプローチすることはないから。だからそんなものに目を奪われてるようじゃ、それは駄目なんだね。
でもそういうのにはまってる人っていうのは、逆に自分がすごく知性が高いような錯覚に陥ってる。「おれは知性が高いから、うまくこういうふうにやっていけるんだ」っていう気持ちで、うまくこうやっていくわけだけど。まあ実際それでこの世で成功しちゃったりするわけだけども。それは決して価値あることじゃないんだね。
だからそれは自分の問題もそうだし、周りにもそういう人がいた場合、その中途半端な、この世レベルの知恵ではなくて、本当の智慧ね。本当に何が大事であって、何が大事でなくて、何が真理で、何がわれわれを不幸に引きずり込むものなのかっていうのを、ちゃんと理解させなきゃいけないっていうことだね。
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