「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第七回(5)
でも、すごく、もうちょっと単純な話をしますね。単純な話っていうか実質的な話をしますよ。特に皆さんみたいにバクティ系の道を歩んでる人は、非常に分かりやすいです。これはまあ、何回か言ってるけど、またちょっといい話なんで引用させてもらうけどね。何回か言ってるっていうのは……あの、メダサーナンダさんの話ね(笑)。メダサーナンダさんはラーマクリシュナの生誕祭のときに来てくださって、まあすごくいい話をしてくださったと思うんだね。そのときにつまり……ん?
【中継トラブルによりしばらく中断】
魔の働きかな(笑)?
(一同笑)
「やばい!」とばかりに(笑)。
でも、魔が邪魔しようとしたってことは、多分、今話そうとしたことは、とても大事な話だったのかもしれないね(笑)。
――はい。じゃああの、魔が邪魔するほどの大事な話をしますが(笑)、続きをいきますが――まあ単純な話なんだけど、つまりその――まあメダサーナンダさんの話なんだけど(笑)。メダサーナンダさんがこのあいだ言ってたね、つまりその、神というのは、つまり至高者というのは、至福に満ちていると。だからわれわれの心が神に向かってたら、至福になると。つまり、楽しく喜びに満ちるはずだと。だからそこで暗い顔になったりとか、その、なんていうかな、ちょっと苦しくなるっていうのは、それは変なんだっていう話なんだね。
で、それは確かに素晴らしい教えなんだね。もちろんその、なんていうかな、自分のカルマと戦って苦しいっていうのはありますよ。でもそれは、それはそれなんです。それはそれっていうのは、当然苦しいでしょう。苦しいけども楽しいんです。まあつまりそれは、好きなスポーツやってるのと似てるかもしれない。まあわたしも柔道とかやってたけども、あるいは野球とか好きだったけど、当然練習とかきつくて苦しいわけだけど、もうハーハー言ってもう、体中がほんとにもうグジャグジャになりそうなんだけども、「楽しいな」っていう感じがあるわけだね(笑)。それと同じで、修行自体もちろん苦しいんだけど、神に心がちゃんとつながっていたら、それ自体が喜びっていうかな。この道を歩かせていただける喜びが常にあるはずなんです。
つまり今言いたかったことは、いいですか?――これ大事なところですよ――もし自分の心が明るくなかったら、それは魔にやられてる。つまり明るくなきゃおかしいんです。この神の道を歩む者は――もう一回言いますよ。カルマと戦ってる苦しみは当然あるでしょう。それはそれとして、明るいんです、絶対に。ふわーって明るさがあるんです。もちろんずーっと明るかったらそれは素晴らしいよ。それはもう完全な神の信者です。もう年がら年中明るいと。いつも笑ってるね、あの人はと。これは素晴らしい。でもそこまでいかなくても、一日の中で何度も神を思い出して心が明るくなると。あるいは、自分が歩んでる道のことを思い出して心が満たされると。こうじゃなきゃおかしいんです。これはもう一回断言しますけども、そうじゃないとおかしいいんです。魔にやられてるんです。それは一つの、だから自分の中のバロメーターにしたらいいね。自分の中に明るさとか、神とつながってる至福みたいなものがないっていうことは、なんかわたし、魔にやられてるかなと。
もう一つ言うならば、これはまあその、神への帰依、及び、さっきの真我とかいう話でも関係してきますが、皆さんもこれ経験あるだろうけど、われわれは本当に神のことを思い、あるいは自分は真我なんだっていう思いを、まあ悟りじゃなくても、ある程度の知性でそれをつかんでるときっていうのは――いいですか?――結構なことは――全部とは言わないけども、結構ほとんどのことは、どうでもよくなります(笑)。何回かこれも言ってるけどね。どうでもよくなります。どうでもいいっていうのは、例えば、「あの人がわたしにこんなこと言った」とか。ね(笑)。「わたしのこれがない」とか。ね(笑)。いろいろあるよね。「わたしはこう思われたいのに、なんでこんな感じなんだ」とか、「あの人はこうなのになんでわたしはこういう状況にあるんだ」とかね。どうでもよくなります。でも逆に言うと、どうでもよくなってないとしたら、魔にやられてるんです。つまり完全にわれわれが神とか真我とかから離れちゃってる証拠です。
この二つっていうのは、ちょっと単純な話なんだけど、バロメーターになります。もう一回言いますよ。自分が明るいかどうか。それから、なんかとらわれてないか。どうでもいいっていうその感覚を忘れてないか。
もう一回言うけどさ、この間も「どうでもいい」っていう話してたけど――なんかカイラス、どうでもいいっていう集団っていうか(笑)――に思われちゃあれなんだけど、もう一回言うよ。ここでどうでもいいっていうのは、「聖なるどうでもいい」ですよ。「聖なるどうでもいい」(笑)。
(一同笑)
「聖なるどうでもいい」っていうのは、いい加減などうでもいいじゃなくてね、「聖なるどうでもいい」。聖なる見地から言ったら、あらゆることはどうでもいいと。本当にどうでもいいんです。その見地っていうかな。われわれの心が至高者とか真我に没入したら、本当にどうでもいいことなんです。
でももう一回言うけども、われわれの心と――まあわれわれは一応肉体を持っちゃって、この世で救済活動とか、修行とかしないといけないから、一応この肉体にグーッと入り込んでるから、この肉体を限定してるいろんな観念とかにこう、すぐ取り込まれちゃうんですね。うん。でもそれはラーマクリシュナが言うように、ね、田舎から金持ちの家に召使に来てる女中のように、一応自分の仕事は果たしながらも、常に心は田舎の家のことを考えてると。こういうのでなきゃいけないんだね。あるいはね、恋で頭がいっぱいの女の子のように。つまりその、一応は自分の仕事とか勉強とかしてるんだけど、いつも頭では好きな子のこと考えてると。こういう感じで、心をいつも神とか、あるいはさっき言った真我とか、まああるいはもちろん四無量心とか菩薩の道でもいいんだけども、そういうので満たしておかないといけない。そうなると、もう一回言うけども、その人は常に明るいです。それから、どうでもよくなります、いろんなことがね。
で、これは理想なんですけども、実際はね、なかなかそのカルマとの戦いって厳しいから、そうは言いつつも、結構魔にやられてしまう場合が多い。その場合は、今の話をまず知識として頭に入れておいて、無理やりでもいいから、演技でもいいから、そうしてください。そうしてくださいっていうのは、まず第一に、演技でもいいから明るくしてください。これは魔に打ち勝つ一つの材料になります。つまり、「ん? なんか最近わたし悩みが多いな」と。「悩みが多くてちょっと暗くなっている」と。ね。で、「先生はなんか、神に心が本当に結びついてたら、明るいし至福だって言ってたけど、『あ、そうだ!』って思ってもなかなかそうならない」と。「え、本当の意味でそうならないな」と。いいです、それは。本当の意味でそうならないなら、ふりだけでいいです。笑ってください(笑)。ね。シャーンティデーヴァもね、「いつも笑顔を保て」って言ってるけども、常に笑って、笑顔で。で、もちろん人の前でもそうだけども、自分一人でいるときもだよ。人前では明るく保って、自分一人でいるときは暗くなるんじゃなくて、人前で明るく保って、一人でいるときも神は常に見てると思ってね、明るさを失わないと。
なんでかって言うと、いつも言うようにさ、明るいとか暗いとか、ね、怒ってるとか笑ってるとか、全部演技だから。われわれが演技じゃないと思ってるのも全部演技だから。だから良い演技をするんだね。だから明るさを保つ演技をすると。で、この明るさの力っていうか、あるいは至福の力ね。これも、至福も思い込んでいいです。つまり、本当はまだ暗さがあるんだけども、「いや、わたしは――まあいわゆる随喜ってやつだね――わたしはこんな素晴らしい道を歩めて本当に嬉しい」と。
あのさ、そういう思索によってでもいいんだけど、フィーリングでもいいですよ。この中にいる人は結構フィーリング的な人が多いから、思索よりもフィーリングの方がいいのかもしれない。思索っていうのは、つまり「こうで、こうで、こうで……だってこんな素晴らしい環境にあるじゃないか」と。「こんな素晴らしい恩恵受けてるじゃないか」と。「だからなんて素晴らしいんだ!」でいいんだけど、じゃなくてフィーリング的なやり方っていうのは、ただ見つけるんだね。「あ、どうだったっけ? どうだったっけ? どうだったっけ? ……あ、これだ!」「ああ!」って感じね(笑)。
(一同笑)
なんていうかな(笑)、いい加減っていうか――いい加減っていうかその(笑)、なんていうか、全然論理的じゃないんだけども、明るさみたいなね、神に心が合ったときの明るさみたいのを見つけて、「あ! これだ!」と。「この感覚だ!」と。でもそれは百パーセント今よみがえってないけども、それをふりをするっていうか、そのときのことを思い出して、明るい感じを演技するっていうかな。うん。これはとても大事なんだね。
何度も言うけどさ、一部の例えば仏教とか宗教とかいろんな精神世界では、そういった演技は駄目だって言う人もいるけども、そんなことありません。演技してください。聖なる演技をするうちに、それが本当に自分のものになってくる。そしてもちろんそれは周りにもいい影響を与えるからね。うん。
あの、明るい人がもしここにいるとしたら、神の明るさで満ちてる人がいるとしたらね、周りも、「ああ、なんだ、わたし最近つまんないことで苦しんでたけど、そんなことで苦しむ意味なかったんだな」と。周りにいい影響を与えられて、そのカルマによってまた自分も救われると。
あの、菩薩っていうのは当然、特にそういう存在じゃなきゃいけないんだよ。菩薩っていうのは――もちろん菩薩行っていうのは苦しいところがある。つまり自分の苦しみとも闘わなきゃいけないし、あるいは他人のことも考えながら、このカルマの世界の中で戦っていかなきゃいけないから。苦しまなきゃいけないんだけど、決して菩薩っていうのは、苦しみを表わしちゃいけないんです。つまり愛情欲求が強い人みたいに、「わたしこんなに苦しんでるんです。どうなんでしょう?」――これは菩薩じゃないよね、全然ね。うん。「おれ、こんな苦しい菩薩なんだ! グワーッ……」。
(一同笑)
こんな、アピールする菩薩がいたら嫌だよね(笑)。
(一同笑)
じゃなくて、心の中はもう本当にもうボロボロでね、闘ってて、もうグジャグジャで、自分が救おうとしてる誰よりも苦しんでるかもしれない。でもそんなことはまったく表現しない。で、表面的には誰よりも明るく、誰よりも神の愛で満ちた、至福に満ちた状態で生きるんだね。これがわれわれが歩む道であってね。
で、それを、もう一回言うけども、そのような演技でもいいから明るさを保つと。それからもう一つは、さっき言った、「どうでもいい」と。このどうでもいいっていうのも、本当にそこまでまだ思えなくても、ワードとしてまず覚えといてください。ワードとして――もう前から何度も言ってるけどね――「どうでもいい」と。あるいは、「いいじゃないか」と。ね。「どうでもいいんだ」と。「いいじゃないか」と。このワードを覚えておいて、なんかとらわれちゃって――とらわれちゃってるっていうか、苦しんでるなってときね。自分がなんか苦しいと思ったら、それを思い出してください。「どうでもいい」と。
だって――これ、ここまでいっちゃうともう究極の話になっちゃうんだけど――「なんでどうでもいいんですか?」「真我だから」。ね(笑)。これは『バガヴァッド・ギーター』でも繰り返しそういうこと言われてるね。うん。「君の本質は真我だ」と。「真我っていうのは、一切の――さっき言った、概念的なこと、カルマ的なこと、肉体的なことから解放されてる。関係ないんだ」と。だからどうでもいいんだと、ほかのことはね。この感覚。この感覚を忘れないように。
で、これも演技でいいです、最初は。どうでもいいって言われても、どうでもよくないんだよなと。ちょっとやっぱりひっかかっちゃうと。――それは、そこにはまらないようにしてください。考え出すとはまっちゃうから。じゃなくて、「どうでもいい」と。で、この「どうでもいい」の剣ですべての魔を断ち切るっていうかな。どうでもいいっていう剣で、あらゆる、われわれをこの世に縛りつけようとするマーラの悪魔の魔を切り裂いていくんだね。
神への愛の喜びと、その他のことはどうでもいいという感覚ね。これを――いいですか、皆さんが実践したならば、ね、最初に話が戻るけども、もう常にせめぎ合いによって、常にわれわれに迫ってきてるさまざまな魔の働きがあるわけだけども、それに、まあ、あまりやられなくなります。うん。
だいたい魔っていうのは、さっきも言ったように、気付かぬうちにやられちゃってて。で、やられちゃうともう、なかなか抜けられないっていうか――そういうところがあるんだけども。まずやられることが少なくなるし、やられてしまったとしても――つまり、魔の世界に引きずりこまれたとしても、まあそこからはい上がるのが早くなります。今のを分かってるとね。
わたし自身もそうだし、あるいはわたしが見てきたいろんな人も、やっぱりなんていうかな、素質とかね、あるいは、こういういい境地を経験したことがある、というのがあったとしても、やっぱり魔にやられちゃうと、全部吹っ飛んじゃうんだね。全部吹っ飛んじゃって、完全にそこに没入しちゃってね、なんだったんだっていう感じになってしまう。で、普通はそこで、さっき言ったようなエッセンスを知らないと、もうなかなか自分の世界で堂々巡りになって、もう全然はい上がれないって感じになってしまう。
だから、これは皆さんはある意味徳がある。あるいはさっき魔が邪魔したのでも分かるけども、これは素晴らしい、わたしから皆さんに対するプレゼントです。プレゼントっていっても単純な話なんだけどね。明るくなると。そして、どうでもいいと。ね。この二つ(笑)。神を思った明るさを、演技でもいいから失わないと。ね。そして、他のことはどうでもいいと。この二つを心から忘れないようにしたらいいね。
昔、前は皆さんに、またこれもワードとして覚えといてって言ったのは、「マーヤー!」っていうやつね。一切はマーヤーであると。まあもう一つは、「いいじゃないか」と(笑)。まあ「いいじゃないか」っていうのは「どうでもいい」に通じるわけだけども。ね。「いいじゃないか」と。「一切はどうでもいいんだ」と。この感覚。ね。まあそれはつまり一切がマーヤーだからだけども。それともう一つ、今日付け加えた、神に本当に心が合ってれば、すべては喜びであると。で、その明るい感覚、心がその喜びに満ちてる感覚を、無理やりでもいいから――まだ心に苦悩があったとしてもいいので、無理やりでもいいから演技すると。それによって、魔に対する大いなる対抗となって、それによってわれわれ及びわれわれの周りの者が、どんどん魔に打ち勝つ条件ができるっていうことですね。
はい。今日は、結局この解説は全く一行も進まなかったね(笑)。前提で終わっちゃったけども。まあでも大事な話だったのでね、いいかっていうことですね。
はい、では終わりにしましょう。
(一同)ありがとうございました。
-
前の記事
シュリーラーマチャリタマーナサ(22)「神の婚礼」 -
次の記事
心を柔軟にせよ