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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第一回(9)

 はい。そして、「戒を具足すること」――これも同じね。これもね、戒律っていうのも、よくね、阿修羅的なタイプの人っていうのは戒律が嫌いだっていうから、「おれは修行はするし、布施もするけど、戒律に縛られるのはまっぴらだぜ!」っていう人が、たまにいるわけだけど。「いや、おれは頑張りますよ、修行」と。「でも、これやっちゃ駄目とかいうのはちょっと聞きませんね」と。ね。「いや、これはちょっとやらせてもらいますよ」と。「いや、おれ酒飲みますよ」と。「タバコ吸いますよ。それがどうしたんですか?」と。「ぼくは莫大な徳を積んでますから」と。これ阿修羅(笑)。これは駄目なんだね。
 じゃなくて、戒律を――これもね、皆さんの中にそういうタイプいるかどうか分からない。戒律を――あのさ、実はこういうこと言うとなんなんだけど、わたしももともとは阿修羅的なタイプだったから、わたしも最初はやっぱりそういうタイプだった、どっちかっていうと。「修行やりましょう」と。「布施もどんどんします。徳も積みます」と。「でも縛られるのはまっぴらだ」と(笑)。そういう、何をしちゃいけないとかね、そういうのはまっぴらだと。で、結構そういうタイプだったんだね。だから皆さんの中にも結構そういう人はもしかしているかもしれない。でも、それも純粋な戒の喜びっていうのを感じられるようにならなきゃいけない。純粋な戒の喜びっていうのは、わたしはもともとはそういうタイプじゃなかったから、わたし自身の言葉としては言えないんだけど、ちょっとわたしの知ってる修行者とかで言うとね、例えばこういう人がいるんです。今まで修行っていうのを知らなかったと。で、教えに巡り合いましたと。仏教とかヨーガとかね。で、そこで戒律の話が出てきたと。例えば何をやってはいけない、何をやってはいけない。それに巡り合ったときに歓喜したっていうんだね。「はあ! やっと巡り合った!」と。つまり人生の指針っていうか、「これをやっちゃいけないんだ!」と。

(一同笑)

「そうだったのか!」と。「ありがとう!」と。「そんなこと言ってくれる人は誰もいなかった」と。「仏陀がやっちゃいけないって言ってくれたことに、やっと巡り合えた!」と。この喜びね。わたしはこれを最初は分からなかった。でも、これもさっきの信とかと同じで、あるときから分かるようになった。
 最初、昔ね、その修行者がそういうこと言ってるの聞いて、「何言ってるんだろう?」と。「なんかそんな縛られることをね、喜んで、なんなんだこの人は」と思ったんだけど(笑)。自分の心が純粋化してきて、やっと分かったんです。彼の言ってたこと。その「これやっちゃいけないよ」って仏陀が言ってくれた。それに自分を当てはめてくれる喜びっていうかな(笑)。戒律で自分を縛っていただける喜びっていうかがあるんだね。だからこれもぜひ自分にそれが少ないと思う人は、そういう部分を自分の中で増大させなきゃいけない。

 はい。そして、「布施を完成する」――まあこれもさっきと同じね。

 「心にこだわりがないこと、無垢な心を持つこと」――このへんもね、これも曖昧な言い方するしかないんだけど、われわれが本当に神や仏陀に対して心が開いた状態――まあわたしはよく「神に心を開きなさい」っていう表現を使うけども、神や仏陀に心が開いた――そうですね、心を開くっていうのはとてもいい表現かもしれない。つまり、わたしが言う、言葉で表せない信っていうものに、ちょっと近いかもしれない。心を開かなきゃいけないんです。「ああ、神よ!」と。「完全に身を委ねます」と。「仏陀に完全に身を委ねます」って開くんだね。
 この心を開いたときっていうのは、とらわれがなくなります。そして無垢になるんです。もちろんまだ落とさなきゃいけないけがれはあるんだけども、でもその根本的に無垢になります。あるいは根本的にとらわれのない人になります。まさにバクティヨーガ的に言うと、「神の幼子」のような感じになります。「ああ、母なる神よ!」と。「もう任せました」と。「煮るなり好きなようにしてください」と。「もうあなた以外ありません」という感じになるんだね。そうするとガチガチに、「いや、おれはこうで、あれはこうで」っていったとらわれが、どんどん薄くなります。
 これはだからね、なんていうかな、わたしにとってはね――わたしにとってはっていうか、わたしから皆さんに対するプレゼントとしては、これは一つの鍵の言葉なんですね。鍵の言葉。つまり論理的にはどうしても表せないことなんだけど、まあ皆さんの心の鍵を開くかなっていう言葉としてプレゼントしたいのが、「神に心を開きなさい」と。あるいは「仏陀に心を開きなさい」と。それによって見えてくるものがあります。
 これはね、わたし自身も利用してます。この鍵の言葉を。例えばわたしももちろん、まだ完全なね、もちろん仏陀ってわけじゃないから、たまにカルマによって悪い心に巻き込まれるときがある。例えばいつの間にか心がどうでもいいことにとらわれてるときがある。そうすると、心が暗くなってるのが分かる。で、ハッと気づくわけだね。「あれ? なんか心が変だ」と。「あれ? 固いぞ今」と。「暗いぞ」と。そのときに例えば、「あ、ということは、おれは今、神に心開いていないな」と。で、そのキーワードによって、「じゃあ開こう」と。「ああ、神よ」と。「心開きます」――それで消えるんです、とらわれが。あんなに強かったとらわれが、パーッて消えるんだね。
 で、これを論理的に消すのは難しいんです。例えば、誰かに対する憎しみがある場合、例えば何かに対してとらわれがある場合、論理的にも消せるんですよ。「これはこうであって、こうであって、こうだから、こうじゃなきゃ」――そうするとだんだん一つ一つ消えていく。しかし、この神に心開くことに成功したときっていうのは、もう一瞬にして消えます。すべてがパーッ――まあだから、この『スートラ・サムッチャヤ』の後の方に出てくる表現なんだけど、まさに暗闇に灯火がパッとついたようなもんです。つまりそのときってさ、つまり暗闇に電気がパッとついたときっていうのは、ちょっとずつ消えるわけじゃないよね? 一瞬にしてすべてが消える。つまり闇がね。つまり闇がちょっとずつボワボワボワって、明るくなるわけじゃないよね(笑)? パチッて入れたら全体がすべてパッとなるね。これと同じように、神に心をパッと開けたときに、それまで一個、二個、十個、二十個、三十個ってあったものが、全部消えます。だから信は素晴らしいんだね。

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