yoga school kailas

「苦しみに征服されない者となれ」

【本文】

 ドゥルガー女神の信者であるカルナータ国人は、自分の身体の一部を焼いたり切断したりすることなどの苦痛を、無益に忍ぶ。しかるに、私はなぜ解脱のために臆病なのか。

 およそいかなる事柄でも、反復実習によって成し遂げられないものはない。そこで軽易な災厄に耐え忍ぶことを反復実習し、それによって大災厄をも耐え忍ばねばならぬ。

 南京虫、虻、蚊、飢え、渇きなどの苦痛、激しいかゆみ等の苦しみ--なぜこれら(忍耐の機会)を、汝は無用のものとして無視するのか。

 寒さ、暑さ、雨、風、旅路、病、監禁、殴打などによって、心を繊弱ならしめてはならない。そうでないと、災厄が増大する。

【解説】

 カルナータ国というのは、南インドのある一地方を指すらしいですね。このカルナータ国に限らず、土着宗教の風習として、無益に自分の肉体を苦しめる人々というのは世界に存在しますね。彼らは風習や信仰によってそれらを耐え忍んでいるわけですが、もちろんそれで解脱するわけでも悟るわけでも、衆生が救済されるわけでもありません。
 しかし自分は、ダルマの教えに出会い、修行し、解脱・悟り・衆生救済の道に入っている。その道の途上で、浄化のために生じるさまざまな苦しみは、意味のある苦しみです。そこで耐えることで、解脱・悟り・衆生救済に近づく苦しみです。それなのに--世界には意味のない苦しみに喜んで耐える人も多くいるのに--なぜ自分は、解脱のための意味ある苦しみに耐えることができないのか、と自己を鼓舞しているわけですね。

 そして、最初から「できるだけ苦しみたくない」という逃げ腰でいると、あらゆる小さな災厄までもが、自己の心を揺らす因となってしないます。
 菩薩というのは、世界中の全ての苦しみを自分ひとりで引き受けようという強い志を持たなければなりません。しかしそのような大きな苦痛を一人で背負うことに、今の自分が耐えられるかどうかはわかりません。よって日々の小さな苦しみを無駄にせず、自分の心を鍛えるための訓練の道具として使うべきなのです。 
 しかし我々は、言葉では「私はすべての衆生を苦を背負う」などと高らかに叫びながら、日常の小さな苦しみから逃げることばかり考えています。これではだめだということですね。日常の小さな苦しみこそ、無用なのではなく、自己を鍛える重要な宝物のような現象だと認識し、喜んでそれらに耐える訓練をすることです。そうすることによって徐々に、より大きな苦しみにも難なく耐えられるようになってくるでしょう。しかし常に苦しみから逃げることばかり考えているなら、形だけ教えを実践していても、なかなか心の堅固さはもたらされないでしょう。

【本文】

 ある者は自己の血を見て著しく勇気を奮い起こし、またある者は他人の血を見て意気消沈に陥る。

 これは、心が堅固であるか臆病であるかに原因がある。それゆえ、苦しみによって征服されない者となれよ。そして災厄に打ち勝てよ。

 賢者は苦しみのうちにあっても心の澄浄を乱すべきでない。なぜなら、煩悩と戦っているのである。そして戦闘において、災厄は起こりがちであるからである。

 己の胸をもって敵の打撃を受け止めようとする人々は、敵に勝つ。かような人々は、勝利者であり、勇者である。しかし残りの人々は、「すでに死せる者を殺す者」である。

【解説】

 ここは大変激しく、勇ましく、力強い宣言ですね。 
 シャーンティデーヴァ(平和・寂静の神)という名前からは想像もつかない激しさです(笑)。
 しかし私は、もともと仏教にもヨーガ修行にも、そのような激しさは必要だと思います。激しさというか、死に物狂いで、ボロボロになりつつも煩悩と戦い、勝利を得るんだという厳しい覚悟ですね。
 傷をなめあい、ただ慰めるだけの宗教じゃないんですね。実質的に、自己の心の汚れと戦わなければならないわけです。この自己の心の汚れという敵は、外的などんな敵よりも手ごわい敵です。だからそこで苦難や障害が生じるのは、当たり前なのです。しかもそれが菩薩行という修行ならば、なおさらです。自己の心の汚れを打ち破り、あらゆる魔に打ち勝ち、衆生を救うという大願を成就するためには、心身ともにボロボロになり、あらゆる苦しみを経験することも厭わないくらいの覚悟が必要だと思います。
 そのような覚悟で、敵--すなわち自己の悪しき心、悪しきカルマから生じる苦しみから逃げることなく、堂々と正面からそれを受け止めようとする人は、敵に打ち勝つでしょう。そのような覚悟を本当に持てたならば、その瞬間、全ての苦しみは消え去るでしょう。

 しかしそうではなく、残りの人々は「すでに死せる者を殺す者」だといいます。これはどういう意味でしょうか?
 私はこれには、二つの意味が考えられると思いますね。一つは単に、自己の心の汚れという敵に勝てない者の比喩ですね。たとえば戦において、もう死んでいる相手の兵の死体に、一生懸命刀を刺したりしても、何の意味もなく、まったく勝利に貢献する行為ではありません。
 そしてここをもう少し深読みすると、「生きた敵=実際に今自分に生じている、エゴによる苦悩」に立ち向かうことなく、机上の論理や、過去の思い出や、未来の妄想ばかりを追い求め、なんら自己の心の浄化に向かわないもののたとえではないかとも思いますね。

【本文】

 さらに苦しみには他の徳がある。それは厭患によっておごりをなくさせることである。また輪廻するものに慈悲を、悪に対しておそれを、勝利者(仏陀)に対して渇仰を生ぜしめる。

【解説】

 今まであげてきたことに加えて、苦しみには更なるメリットがあるといいます。
 まずおごり、慢心を壊してくれます。いろいろなことがうまくいっているときというのは、おごりや慢心に陥りやすいものです。しかし苦しみを与えられたり、バカにされたり傷つけられることで、謙虚になり、慢心から目覚めることが出来ます。
 
 次に、自己が十分に苦しみを味わうことによって、自分と同じように、いや、自分以上に苦しんでいる輪廻の衆生に対して、強い慈悲の心を持つことができるようになります。

 そして、苦しみを十分に味わうことで、その原因である悪の思いや行いをなすことに対しておそれを抱き、もう二度と悪にふけらないという心を培うことができます。

 そして、自己がこのような苦しみと悪業を多く持った汚れた魂だということを十分に認識することで、仏陀に救済を求める強い渇仰の心がわかざるを得なくなえるでしょう。

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