「純粋な信仰心」
◎純粋な信仰心
【本文】
わたしは誰をも憎まず、誰にも愛着せず、誰に対しても絶対平等である。
だがわたしを心の底から信じて礼拝する人は、常に私の中に住み、私もその人の中に住む。
はい。これはさっき言ったことと同じですね。絶対者には当然偏った心はない。つまり太陽のように、常に絶対者自身はすべてに愛を注いでいるわけだけど、注がれる側の方が限定条件を設けてしまうんだね。その限定条件をすべて外して、すべてに偏在する完全なる存在に理解を持って、それに自分をささげる人には、すべてを与える――ということだね。
自分ではなかなかそれって分からないんだね。「私は完全なる神を信じています」と言いながら、いろいろ客観的に見るとね、すごく観念的で凝り固まっている人もいる。自分の考えの枠から出られない人もいる。なかなか言葉では難しいところがある。
今世界にこのバガヴァッド・ギーターを信仰しているインド人もいっぱいいるし、あるいはキリスト教もちょっと似ているところがあるよね。純粋にただ神に信仰すると。でもその中でどれだけの人が、本当の純粋な信仰を得ているかっていうのは、非常に難しい。本当に純粋な信仰心があれば、他は何もいらない。
でも、ここで書かれているように、ちょっと前のところに、「離欲と放棄の念をしっかり持つならば」って書いてあるね。実際問題として、やっぱり離欲と放棄の心って必要なんだと思う。本当はいらないんですよ。本当はただ純粋な神への愛だけで充分なんだけど、それだけだとやはりエゴがズルをし出すんだね。「私は信仰をしているんですよ」という建て前のもとに、どんどんエゴが増大化するような道に入る。だからそれをシャットアウトするために、日ごろ離欲と放棄――欲を離れ、いろんなものを放棄する訓練が必要なんだね。私は何も要りませんという―――それは形あるものも含めて、あるいは形のないものも含めて、放棄していく訓練も実際は必要だと。
もちろん根本にくるのは、求道心だよね。私は真理を知りたいんだと。かたち上、私はこういう教えをやっているだけじゃなくて、リアルに真理を知りたいんだと。どうなんですかと。そこで、自分が見出した、例えばバクティ・ヨーガの道に入っているんだけど、「さあ、私はエゴに陥ってないかな」と。「バクティとか純粋な信愛とか言いながら、実はエゴを満足させているだけじゃないかな」というような、純粋な自己チェックというかな、これが大事なんです。
これはシャーンティデーヴァの『入菩提行論』の内容が、そういう意味ではすごくいいね。例えば念正智の話とか。だから、前も言ったけども、バガヴァッド・ギーターっていうのは最高の真理です。最高の真理だけども、実践面においては、バガヴァッド・ギーターだけではなかなか難しい。実践面においては、『入菩提行論』の方が優れているかもしれない。実際に使える日々のものとしては、『入菩提行論』は素晴らしいね。でも本当の本当の最高の真理を思い出させてくれるのは、このバガヴァッド・ギーターだね。