「私が見たアドブターナンダ」より抜粋(7)
師(ラーマクリシュナ)は、ラトゥを神への奉仕の実践に導き入れる前から、絶対服従の約束でラトゥを縛った。その理由は明らかではない。しかし、奉仕の修行においてグルの指導は重要であり、もし弟子がグルを絶対的に信じて従わなければ、その修行に効果はない、ということを示しているのではないかと私たちは推測する。
したがって、シュリー・ラーマクリシュナは初めから服従を約束させたのかもしれない。師はよく仰ったものだ。
「最高のグルは、怠惰で指示を実行したがらない弟子を見つけると、力を行使したり、強引に服従させたりもする。」
グルは、すべての霊性の実践の中になくてはならない存在であり、神への奉仕の道においては、その存在はより重要になってくる。
繰り返し言う必要はない。その道に熟達した案内人なしに神への奉仕に専心する霊性の初心の修行者は、舵なしでボートに乗るようなものである。――ボートは波によってはじかれたり、激しく揺らされたりして、風が吹くところはどこにでも流されてしまうのだ。
未熟者は大量の仕事の海の中で、そのような運命をたどる。――彼は目的を見失う。すなわち、神の実現、神の人生という目的を。
慈善的またはその他の仕事の中でも、中毒の類のものもある。それは人を狂わせる種類のものである。――彼は目的を忘れる。行為が欲望と怒りを生じさせ、それにより人は足元をすくわれる。彼は疲弊し、混乱し、休息できなくなる。
ラトゥは師との約束通り、生涯を通じてシュリー・ラーマクリシュナの真の召使いであり続けた。
師を忘れて過ごした日は一日もなく、命令を破った日も一日もなかった。――また、師へのご恩を忘れて過ごした瞬間はひと時もなかった。ドッキネッショルでそうだっただけではなく、シュリー・ラーマクリシュナが亡くなった後も、ラトゥは一つの考え、発想、そして目標に徹した。――師に完全に従うため、そして瞬間といえども彼を忘れないために。
こうして、神を忘れないという約束をさせることによって、師はラトゥに、神の召使い(ダーシャ)たるものは一瞬たりとも神を忘れてはいけないのだという感銘を与え、彼はそれを生涯決して忘れることはなかったのだ。
神の召使いであったラトゥは、師への最高の帰依によって霊性の修行を始め、最後まで忠実に付き従ったのだった。
彼の帰依心は本当にすばらしく徹底していたので、後年、彼のグルバイつまり兄弟弟子たち、特にナレンドラ(スワミ・ヴィヴェカーナンダ)は、こう語っていた。
「私たち全員の中でラトゥだけが真に師を掴んでおり、私たちは単にラトゥの言葉を繰り返していただけだ。」
もし私たちがラトゥ・マハラジを知らなかったならば、人が一人の師にそのように完全に帰依し、真に自己を明け渡すことが本当に可能なのだということを、理解できなかったかもしれない。
他者のために自分の命を犠牲にすること――それはたった一回行なえば済むものであるが、それよりも、完全に個を滅し、自分ではない者に自分を明け渡して、人生すべてを他者のために捧げ続けることの方が、はるかに難しい。
ラトゥ・マハラジは、シュリー・ラーマクリシュナに奉仕することを許された日以来、一度も他に行くことなく、師一人に完全に帰依していた。
ラトゥの心には、少年期そして青年期を迎える前でさえ、この印象が深く刻みこまれていた。その結果、心の葛藤の潮はいつも引いており、彼自身の努力ですべてを成し遂げることができ、エゴイズムは完全に払しょくされていたのだった。
一般的に私たちは、自分で理解したことを実践することで、成長し幸福になると思っている。
したがって、私たちの向上心は、自分の理性の幅と方向性によって制限されている。当然、私たちはそれを超えることはできない。
もしその見解を変え、理解の幅が広くなるならば、私たちの向上心も増大するだろう。
世俗的欲望によって抑圧されている一般の人々は、自分で自分の知性の外周を狭め、それによって視野をより狭めてしまっている。
しかし、寛大な見解を持ち、俗世を離れており、また自分自身を世俗的欲望に結び付けることを許さない人達は、いとも簡単に、自らの知性を広げ深めていくことができる。その結果、彼らの向上心はより高まり、より広い範囲を覆うことができるのだ。
ラトゥは、神への奉仕の人生の手ほどきを受けた青年期の終わり頃、他の人達と同じように、世人のように狭く一般的な知性によって人生を送っていくかどうかという問題に直面しなければならなかった。
もしラトゥが私たちのような人だったら、つまりちっぽけな自分の力と知性に誇りを持つような人だったなら、為すべきことを選択するのは難しかっただろう。
しかしラトゥは違った。――彼は無学で直感的だったため、心の葛藤に圧倒されることもあまりなく、容易に自己放棄の道を選択できたのだった。
師の教育を受けた多くの信者たちは――内輪に属している者も外輪の者も――疑念と葛藤の時期を経て、師を受け入れた。彼らは、自分たちの知性の試金石で師を試した。ある者は、(師を受け入れる前は)師を偏執狂者と呼んだことさえあった。
しかしとても驚いたことに、ラトゥの心には、師を試すという考えは一度も浮かんだことはなかったのだった。
ラトゥは、師に言われたことは何でも完全に信じ、疑いなく実行した。
子供とその父親のように、ラトゥは師に完全に自己をゆだね、それによって、他の者には与えられることのない安らぎを楽しんでいた。
神に近づくために奉仕をしようとする者は誰でも、まずは自己を完全に消し去るだろう。自己中心性を残したままでは、誰も本当の意味で他者に奉仕したり、癒すことはできない。なぜなら、自己中心性は、そのような高い理想を実現する妨げとなってしまうからだ。
私たちは奉仕の道を簡単なものだと思っているが、もしその背景に愛がなければ――それは自己中心性を滅した愛であるが――奉仕が重荷となり、単調となり、苦痛となって、取り留めもない心配を作り出すだろう。
彼の自己は得ることと失うことに依存しているから、召使いは希望と絶望の狭間で切り裂かれる。
利益が見込まれないときには、奉仕は無機的になる。そのような奉仕は、いずれにせよ人を向上させない。
しかし、心が本当に無私の奉仕にからめとられているときは、それは至福になる。――何にも結び付けられることなく、何の利益も危険も顧みない召使いは、簡単に引き上げられ、彼自身が神に守護されていることが分かる。
師はラトゥに教えた。
「ラトゥよ、聞きなさい。利益や動機というどんな希望にも揺り動かされてはいけないよ。――お前自身を完全に『彼』に差し出しなさい。
お前が『彼』を手放さなければ、お前はすべてを得るだろう。手放してしまうと、渇望は残る。あるいは増しさえする。そしてお前を翻弄して、不幸にするだろう。」
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