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M――使徒にしてエヴァンジェリスト(4)

M――使徒にしてエヴァンジェリスト  続・ラーマクリシュナの福音

「目的と手段――神の悟りと無私の行為」(2)

 Mは、平野の向こうのアシュワッタ樹の下、一枚のウールのブランケットの上に、ある信者とともに座っていた。その信者は法律を勉強していた。数名の法友は、彼に法律との関係を断ち切るように助言していた。彼はまさにこの問題についてMと話し合っている。

 彼の問題を聞いてMは言った。

「なぜ法律を選んだのかね? それが神への奉仕を目的とするなら、どんな仕事でも反対はないよ。どんなに好きなことであっても、無私で行われるならば、非難を負うことはない。タクルはあなたに、彼ご自身の仕事のためにこのすべておさせになっているのだよ。
 法律においては、学ぶことが十分にある。――ヒンドゥー教の法律、イスラム教の法律、相続法、法律学――これらすべてはとてもよいことだ。多かれ少なかれ、みなはそれらを知っているべきだ。
 利己心がなければ、法律の勉強や、あるいは他の何だってできるのだよ。わたしは彼のお遊びを楽しんでいる――これが、働く態度であるべきだ。ヴェーダーンタ・ケーサリーのような新聞社の仕事に携われば、この法律の勉強も活用されるかもしれない。批評のためにもまた、法律の知識は必要だ。わたしたちが神のお仕事をどれほど理解できるだろうか? ヤージュニャヴァルキャは私心なきサンニャーシーだった。彼は法律を選び、またマヌもそうしたのだよ。彼らはそれが神の仕事であることを知って、『彼』の社会を保護するために法律に仕えたのだ。法律の勉強など、すべての仕事には絶対的ではない相対的な価値がある。あなたに法律を勉強させているのはタクルご自身なのだよ。彼があなたを弁護士の中で働かせることもまたありえることだ。
 物事のさまざまな様相を知れば、それらについて話しやすいだろう。例えば、証言や刑事訴訟法および民事訴訟法の法律を知っていれば、実際に弁護士が人間の価値を下げて心を小さくしていることを、弁護士にはっきりと分からせることができる。何の利益も求めることなくあらゆることをするのが、カルマヨーガの理想なのだよ。現に見てみなさい、スワミジがどれだけの――歴史、文学、科学、天文学、法律やさらに多くのことを学んだかを。彼はなんと多くの人々と接して対処しなければならなかったことか。彼が多才でなかったら、彼は彼らにどのように話すことができたであろうか? 知識を持つのはよいことだ――それらは道具なのだよ。

 法律の勉強はかまわないが、実践してはいけない。金のために真理を不正確に伝えるべきではないからね。あなたに関心を持たせるものはなんでも行なうようにしなさい。あなたの性質の中にあることはなんでも行なわなければならない。シュリー・クリシュナはアルジュナにまさにこのことについておっしゃった。

『私が君に言おうが言うまいが、君はクシャトリヤの仕事をしなければならないだろう。』(ギーター18:59)

 それゆえに、私はあなたに生き方を示し、技術を話しているのだよ。あなたが行なうことは何でも、王国の獲得を望んでではなく、また名誉、名声のためではなく、ただ神を悟るためだけに、利他的な動機で行なうようにしなさい。

 自分ではどうすることもできないときには『神がわたしにおさせになることを、わたしは行ないます』と言い、自分の力でできることには自尊心を表に出してしまう――これはやってはならないことだ。できることもできないことも、すべてを主だけにおまかせしなさい。主に頼りなさい。そうすれば、主がすべてを世話されるだろう。

 
 タクルはよくわたしたちに美しい物語を話してくださった。

 ――神の御名に酔って外界意識を失っていたある人が道を歩いているとき、洗濯夫の布を足で踏んでしまった。洗濯夫は杖をもって彼を打とうと追いかけてきた。ヴァイクンタでは、ラクシュミーとナーラーヤナが王座に座っていらっしゃった。突然ナーラーヤナが立ち上がり、外へ出て行かれた。それからすぐに彼は戻ってこられた。ラクシュミーが彼に尋ねられた。

『あなたはついさきほど出ていかれたのに、すぐに戻ってこられましたね? 』

 ナーラーヤナが答えられた。

『神の栄光の歌に酔って、信者が洗濯夫の服の上を歩いていたのだ。彼は外界の意識がなかった。洗濯夫が彼を打とうと彼を追いかけていたのだよ。そのために私は彼を守護しに行ったのだ。しかし、彼の意識が戻り、彼が自己防衛のために石を拾い上げたのを見て、わたしはすぐに戻ってきたのだよ。』――

 神に完全に頼りなさい。そうすれば、彼はいつもあなたを守護してくださるだろう。神に助けを求めることをしながら布が濡れないようにしようと企てること――この生半可な態度はよくないことだ。

 ある男が川を歩いて渡らなければならなかった。彼は腰布の端をまくり上げて、さらに祈り始めた。

『主よ、どうぞわたしを渡らせてください。』

 土手から数名が言った。

『おお、兄弟よ。君は単に主の御名を口にしているだけで、内心では自分の布を守ろうとしている。これでは駄目だろう。』

 人は、主に自己を完全に明け渡すか、または極限的に個人の努力をすべきなのだよ。いつも主を覚えておくことだ。あなたが主に心から頼る限り、主はあなたの必要なものすべてを世話してくださるだろう。

 タクルはよく別の例えも話してくださった。

 マングースが、なんの悩みもなく、とても快適に壁につかまっている。彼のしっぽにレンガが結び付けられるや否や、試練が始まる。人間もまた、快適であっても、カルマの重みが彼のしっぽに結び付けられるとき、あらゆる困難が起こるのだよ。

 神ご自身がこの世界を――弁護士、警察官、裁判官および法廷――これらすべてをお作りになったのだ。神に関して学んだなら、法律からさえも彼のリーラーが理解できる。ほら、実にどれほどの偉大なリシたち――マヌ、ヤージュニャヴァルキャ、パラーシャラ、ヴィヤーサ、ブリハスパティや他の数多くの者たち――が法律に携わり続けていたことか。

 タクルの素晴らしい言葉がある。

『人は爪切りでさえ自殺することができるが、他者を殺すには、剣や盾を必要とする。』

 それが自分自身のためだけなら法律や科学や文学も必要ではないが、他者を殺すため、つまり人類に教えるためには、それらすべてが必要なのだよ。スワミジはなんと膨大な知識を持っていたのだろう! それによって、彼は一人で、出会ったすべての人に相手の土俵で話をし、彼らの信念に応じて説明することで世界を征服することができたのだ。

 
 わたしたちはどれくらい神の意思を予知できるのだろう。タクルは、私に日記を書くことをどのくらい前からおさせになっておられたことか。1867年にハレ・スクールの三級の生徒であったときからずっと、私は規則正しく――私がしたこと、または私が行ったところを日記に書いていた。そして1882年2月の終わりになってようやくわたしがタクルに会う特典を得たとき、この習慣が役に立つことが分かったのだ。過去の人生を回顧的に振り返って見ると、わたしたちにこれらすべてをおさせになっていたのが主であることが分かる。主が、お望みの者を使って遂行することを望まれることは何でも、運命づけられ、そして果たされる。わたしたちを含め多くの人たちがそこにいたのだが、日記を書いたのはわたしだけであった。このようにして、この本――「シュリー・ラーマクリシュナの福音」が日の目をみたのだよ。15年もの長い年月は見習いとして過ごした。なんと大きな利益がそれから生じたことだろう。記憶は鋭くなり、執筆の技術が上達したのだよ。6、7時間の中で起こった事、あるいは丸一日の中で起こった事でさえも、夜にわたしの心に次々と浮かんできてね――タクルが記憶を研ぎ澄まさせてくださっていたのだ。わたしは歌の最初の一行でさえ、次から次へと心に留めようと試みたよ。
 だから私は言うのだよ。

『わたしたちは神のお仕事をどれくらい予知できるだろう?』

と。
 これらすべての仕事は相対的な価値しか持っていないが、その理想は絶対的だ。主を悟るためだけに、これらすべての準備はある。無私の動機でこれらすべての仕事を絶えず行なうことによって、心は浄化される。そうしてのみ、人は彼のヴィジョンに恵まれるのだ。それから人生の理想が達成されて、すべての仕事が果たされるのだよ。」

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