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「私が見たアドブターナンダ」より抜粋「シュリー・シュリー・ラーマクリシュナの到来」

◎シュリー・シュリー・ラーマクリシュナの到来

 自然主義者であったドクター・ラームチャンドラダッタは、1879年にシュリー・ラーマクリシュナのところへやって来て、彼の生命を蝕んでいた疑問を吐露した。
 そして、そのリシの微笑みは、一瞬でその難題を解決してしまった。
 この医者の人生を知っている者ならば誰でも、彼がシュリー・ラーマクリシュナを見たその時から、神の信者に変わってしまったのだと証言できるだろう――そこに議論の余地はない。
 聖典には、リシはその存在によって、彼と接触しに来た者たちすべての中に神への信念を植え付ける、と説かれている。

 ドクター・ラームチャンドラの心の砂漠に撒かれた神への信の種は枯れることなく、少しずつ芳しい花々とみずみずしい果実をつけた美しい樹へと――神聖なる愛、不変の平安へと――成長していった。
 それは普通の変化ではなく、人格の完全なる変革、心と見解の完全な変化であり、それによって、干からびた知性が取り除かれ、永遠に広がり続け、永遠に深まり続ける無限者への求道の扉が開かれたのだった。
 個性の中の美が開かれるというのは、常に圧倒的なことである。
 シュリー・ラーマクリシュナとの束の間の交わりによって、ラームチャンドラダッタは彼に魅了され、人間をグルとして受け入れることに断固反対であったはずの彼の中に、あらゆる事物に関してシュリー・ラーマクリシュナを導き手として持ちたいという溢れんばかりの欲求が生じた。
 彼はその望みを叶えるために、シュリー・ラーマクリシュナに懇願し続けた。

 霊性の修行への彼の熱意は急速に増大し、彼の家族全員にもその火が付けられた。
 少年召使のラクトゥラームも、その火から逃れることはできなかった。
 とはいえ、読み書きができず、(現代教育的な意味で)無学であったその少年は、ブラフマン、真理の複雑微妙なる概念を理解することはできなかった。
 しかし彼は、この問題から抜け出す道を見出した。
 彼は、最愛の理想神(イシュタ)であるシュリー・ラーマをそのブラフマンとして受け入れ、その彼の御足に、強烈でけがれなきハートの愛を注いだのだった。

 ラームダッタの家でのある祝い事の時に、その少年は(ラーマクリシュナの教えである)以下のことを耳にした。

「主はそのバクタの心の中をごらんになる。その人が何者か、どこにいるのかは気にしない。
 主を見ることに夢中になっている人、主以外の何ものも求めない人、そのような人に主は自らを現わされる。
 誠実に、夢中になって主を求めなければならない。自分の中から策略や陰険さを追い出さなければならない。単純な子供のようにならなければならない。そういう人に、主は自らをお現わしになる。
 人は一人になって憧れを持って主に呼びかけ、主を思って泣かなければならない。
 そうして初めて、主はお恵みを与えてくださるのだ。」

 これらの言葉を主人であるラームダッタの口から聞き、少年ラトゥの心は深い感銘を受けた。
 晩年になってからも、アドブターナンダ(ラトゥ)はよく、これらの言葉を、彼が一番最初に聞いたときと同じようなイントネーション、アクセント、句読で、信者に繰り返していた。
 彼は数えきれないほど、これらをわれわれに繰り返し説いてくださった。それは毎回、われわれにとって非常に新鮮で魅力的だったので、毎回、まるでそれを初めて聞いたように感じるのだった。

 そして彼は非常に真面目に、それを実践していたようだった。

 ラトゥが少年時代から、これらの教えをサーダナーの種子であると見なしていたことは間違いないだろう。

 ラームダッタの次女は、後にこう証言している。

「私たちはよく、ラトゥが応接間の隅に横たわって、頭から足まで毛布に包まっているのを見かけました。
 彼の眼は赤く、しばしば涙で溢れていました――彼はそれを左手でよく拭っていたのでした。
 最初、私たちは、彼はホームシックにかかり、叔父さんのことを考えているのだろうと思っていたので、お母さんはよく彼を慰めていました。
 しかし彼は黙ったままで、何も言いませんでした。」

 この涙の理由が、誰に理解できようか!

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