「私が見たアドブターナンダ」」より抜粋(13)
◎自己中心主義の滅却
次に、ラトゥがいかにして自己中心主義を滅却していったかの、一つの例を記そう。
ラトゥは、師の言葉に自分流の解釈を差し挟むような危険なゲームはせずに、常に師の言葉をただその通りに遵守した。
ある日、師は彼にこう仰った。
「ごらん、我が息子よ。サードゥは施しを乞うて生きる。施しで生活するというのは、自己中心主義を滅却するのにとても役に立つよ。」
この言葉はラトゥの托鉢への渇望に火を付けたが、しばらくの間、師にそのことを切り出せないでいた。するとついに師ご自身がラトゥに、托鉢に出て施しを乞うように仰られた。
そしてラトゥは午前中に出掛け、かなりの量の食料を午後に持ち帰った。これを見て師は、「我が息子よ、今日一日に必要な分だけを受け取るべきだよ。托鉢で得たものは、翌日まで取って置いてはいけない。覚えておきなさい」と仰った。
また別の折――
ラトゥ「われわれが托鉢に出る際に、師はいつものように忠告なさった。
『我が息子達よ、心に留めておきなさい。ある者達はお前達に罵声を浴びせ、またある者達は祝福し、ある者達は金銭をくれるだろう。それらすべてを平静心を持って受け取りなさい。』
私とラカール・バーブは、師に敬礼して托鉢に出かけた。一軒目の家は、われわれがそのドアの前に立つ前に、われわれに耐え難い状況を与えてくれた。顔をしかめた紳士が、呪いの言葉と罵声を浴びせながら出てきたのだ。彼は何かいろいろ言ってきたが、その中でも、
『こいつらの頑強で恰幅の良い体つきを見てみろ! そんなこいつらが物乞いだと? ここから出て行け!』
という言葉を聞くと、ラカール・バーブはすっかり気落ちして、どうして良いか分からなくなってしまった。
わたしは彼を慰めた。
『師がわれわれに忠告なさらなかったかい? 誰かが罵声を浴びせたらどうするんだっけ? 師はわれわれに、称賛であれ非難であれすべてを受け入れるように仰っただろう? さあ、次の家に行こう!』
しかしラカール・バーブはあまりにも恥じ入ってしまい、彼をそこから連れ出すのにしばらくかかった。
次は、年老いた未亡人の家を訪れた。彼女は『愛しい少年達よ、どんな運命があなた達を托鉢へと駆り立てたのですか? 何を乞うているのですか?』と言った。
私たちが托鉢をしている理由を説明すると、彼女は大変満足して、われわれの人生の目的が達成されるよう祝福し、太陽神を見上げて、われわれの成功を祈ってくださった。
そしてわれわれはさらに多くの家々を訪ね、米や金銭やその他のものを受けた。われわれはこれらすべてのものを師の御前に並べ置いた。師は、われわれがその日をどのように過ごしたのかお聞きになった。われわれはすべてを順序だてて師にご説明差し上げた。老寡婦が太陽神を見上げて言ったことをお聞きになったとき、師は仰った。
『その老寡婦の言う通りだ。太陽神とここ(師ご自身)は繋がりがあるのだよ。』」
ある日、ある信者がラトゥ・マハラジに尋ねた。
「マハラジ、師がかつてあなたをマドカリ・ビクシャ(托鉢修行)に送り出したとき、あなたは、霊性の修行から外れてしまったと感じませんでしたか? それは霊性の進歩の障害にはならなかったのですか?」
ラトゥ・マハラジ「マドゥカリそれ自身が霊性の修行ではないのか? それは霊性の修行とどこか違うのか?
マドゥカリを行ずる間、多くの者が批評を通過する。ほとんどは無慈悲な、ときにはとても厳しい言葉を発せられるものだ。そのような挑発にさらされても心の平静を保てる者は、修行の成長過程において十分進化していて、執着や憎しみ等はすでに調御できているに違いないし、内面においては強力な平静さを有しているに違いないのだよ。
サードゥにとって、托鉢は素晴らしい修行だ。その者がプライドと自己中心主義を煩っているうちは、物を乞うことはできない。この理由から、経典はサードゥに托鉢によって食物を得ることを命じているのだよ。
施しを神の贈り物として受ける者と、施しをまるで神ご自身に捧げるように捧げる者、両者とも霊的に恩恵を受けるだろう。サードゥは神に頼ることを学ぶ。この神への従属――このために、師はわれわれが托鉢に出ることを強くお求めになったのだ。」
信者「しかし、他にも神への従属を育む方法はありますでしょう? なぜそこまでこのマドゥカリを勧めるのでしょうか?」
ラトゥ・マハラジ「確かに、他にも方法はある。しかしながら、マドゥカリの実践はより直接的であるゆえに、効果もより高いのだよ。
なぜだか分かるかな? このタイプの物乞いによって食物を得るというのは、乞う側次第ではないのだよ。それは、与える側の物惜しみのない気質次第であって、それにはそんなに簡単に出くわせるものではないんだ。神に恩寵を授かったとき、そのとき初めてその性質は現れる。そうすると、人は放棄の方向へと駆り立てられるのだ。
ときには裕福な者が施すことを拒み、貧しい者が予想を遥かに超えた施しをするのが見られる。これは、施しを得ることは神の御意思次第だということを示している。主が望まなければ、その者は一切れのパンだって得られないんだよ。」