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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(46)

                           1915年9月12日
                           アルモラにて

 親愛なるビハリ・バブーへ

 あなたは大変長い手紙を書いていらっしゃいましたが、それは何の役に立つのでしょうか? それを読んで、わたしは師がおっしゃった“暦をしぼること”に関する話を思い出しました。今年は大洪水があると歴に書いてあったとします。しかしたとえあなたがその本をしぼったとしても、一滴の水も得られないでしょう。経典には、ジーヴァーンムクタ[生きているうちに解脱した者]、パラマハンサ[悟りを享受する成就者]など、悟りに関する様々な段階について多くのことが書かれています。しかし、もしこれらの段階がわれわれの人生において実現や顕現がなされなかったならば、何の役に立つでしょうか? 

 このような詩があります。

「書物に限定された知識や他人の手の中の富は、必要が生じたときに、何の役にも立たない。」[チャナキャ・スローカ]

 わたしは――自分の意志では何事も成し遂げられない――ということをよく知っています。彼の恩寵なしには、誰も神に到達したり、何か高い霊的な状態を得るとはできないことは、わたしには絶対的に真実のように思えます。

 「おお、愚かな心よ、常にラーマを思え。
  他の何百という考えが何の役に立つというのか?
  おお、舌よ、絶え間なくラーマの御名を唱えよ。
  無意味な会話をして、何を得るというのか?
  おお、耳よ、ラーマの物語を聴け。
  世俗的な音楽を聴いて、何の利益を得るというのか?
  おお、目よ、一切のものはラーマで満ちていると見よ。
  そしてラーマ以外の他の一切のものを放棄せよ。」

 これは正真正銘の真実です。もしわれわれがこのように神を思い出すことを実践すれば、われわれは救われるでしょう。さもなければ、苦しみや生死の輪から逃れることはできません。

 「月の叔父さんはみんなのおじさん。」
 「わたしは探し求めましたが、彼を見つけられません。」
 「彼に選ばれた者が彼を見つけます。」
 ――すべての人に、神を礼拝する権利があります。彼女は“代理の母”ではなく、すべての人の母なのです。誰も目的なしにこの世に来ることはありません。なぜあなたは自分自身を動物のように考えるのですか? あなたは母なる神の子供なのです。母なる神の子供には恐れはありません。したがって、あなたもわたしも恐れることはないのです。彼女がわれわれの面倒を見てくださっているので、われわれはそのままでいればいいのです。――わたしはこのことをよく知っています。わたしの取るに足らない知性は限られており、わたしには何が良くて、何が悪いのか分からないのです。

 「あなたは善悪を超えておられます。わたしもそれらの向こうへ連れて行ってください。」――これは、わたしの心からの祈りです。

 「主よ、わたしにはあなたがどんなふうにしてわたしを向こうへ連れて行ってくださるのかは分かりません。しかし、わたしはあなたがそうしてくださると確信しています。」

 師はこうおっしゃいました。

「食べ物を与えられない人はいないのだ。すべての人が食べ物を得るのだが、ある者は朝に、ある者は昼に、またある者は夜にそれを得るのだ。」

 あなたの思召すままに! それだけなのです。

 ブラフマンの智者(ブラフマジュニャーニ)の段階は、非常に高いものです。わたしはそのような大げさなものを知ろうとは思いません。
 以前あなたに、わたしの目標はギーターのこの言葉であると言いましたね。

「常に自分の心を私に結び付けている人たちにとって、私は、彼らを速やかに生死の海から救う救い主になるのだ。」[第十二章.七節]

「なぜなら、肉体を持つ者が、形相を持たない存在を最高目標とし、それに達しようとするのは、至難の業だからだ。」[ギーター、第十二章.五節] 

 あいにく、わたしはまだ肉体意識を超えることができません。したがって、わたしにはあの不滅の絶対的なブラフマンを得ることはとても難しいのです。これはわれわれがブラフマンの智慧がなければどうすることもできないということ意味するのではありません。わたしは師の言葉により、このことを確信しています。あなたにある出来事をお話ししましょう。

 ある日、わたしはシュリ―・ラーマクリシュナにお会いしに行ったとき、そこには大勢の訪問者がいました。彼らの中に、一人の偉大なヴェーダーンタの学者がいました。師は彼に、「われわれにヴェーダーンタについて聞かせてください」とおっしゃいました。その学者はヴェーダーンタのさまざまなことを延々と一時間以上話しました。シュリ―・ラーマクリシュナは大変お喜びになりました。周りの人びとはこれを見て驚きました。しかし、学者をお褒めになった後で、師はこうおっしゃいました。
「私に関するかぎり、そのような詳細な説き方は好まない。私と母以外は何もないのだ。あなた方にとっては、知識と、知る者と知られるもの――瞑想する人と瞑想と瞑想の対象――という三つの区分は大そう結構だ。しかし私にとっては、“私と母”それだけである、他には何もない」と。
 この“私と母”という言葉を、あのお方は、居合わせた人びとすべてを非常に深く感動させるような言い方でおっしゃっいました。その瞬間に、ヴェーダーンタのすべての概念はつまらなくなってしまいました。師の“私と母”は、ヴェーダーンタの三区分よりも、もっとやさしく、素朴で、しかも心を喜ばせるように思われました。そのとき以来わたしは、“母と私”が実践に適した態度であることを学びました。

 瞑想、ジャパ、そして苦行は心による行為であることは本当ですが、霊的な経験もまた心による行為なのです。
 瞑想は、世俗的な心ではできないのです。
 ジャパと苦行によって心が純粋になったとき、瞑想は純粋な心の行為になるのです。
 「霊的な修行の目的は、真我を悟ることである」――これは心が純粋にされなければならないということを意味し、そして、そのあと人は真我を経験します。真我への到達は、それがどこか別のところから持ってこられるということを意味するのではありません。それは常に存在しているのですが、覆われています。この覆いは人の心に存在し、取り除かれなければなりません。何も真我を本質的に覆い隠すことはできません。それは自ら輝いている永遠なるものです。

 例えば、ある女性がネックレスが首にかかってるのを忘れて、あっちこっちを探していましたが、それはセーターに隠されていました。彼女はあとで[セーターの下に]それがあることに気づき、それを見つけました。同様に、真我は存在していますが、しかし真我の智慧が欠けているのです。この智慧が目覚めると、真我を得ると言われています。
 真我は純粋な心によってのみ知ることができます。
 同じ心が感覚的な対象から神へ移るとき、純粋になるのです。

 飼い猫は森に行くと、野生の猫になります。人の(真理に対する)決意は悟りに成熟します。今日の決意が明日の悟りになるのです。しかし、人はしっかりと真理をつかんで離してはいけません。もし人がまず決意するなら、そのあと悟りが続いて起こるでしょう。さもなければ、それは起こらないのです。まず真我について聞き、そのあと熟考し、最後に瞑想します。あとでそれが経験されるとき、それは悟りとして知られるのです。

                          あなたの
                          トゥリヤーナンダ

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