「真理の楔」(1)
「約束のサイン」勉強会
「真理の楔」より
◎カルマの輪
【本文】
真理の楔
たとえば悪口を言われたり、嫌味を言われたり、批判されたり、陰口をたたかれたりする。
そしてそのようなことを言う人を観察すると、その人も別の人に同様のことを言われたりしている。
そして――これが一番気づきにくいのだが――自分もまた同じだということに気づかなければいけない。
つまり何かをされるカルマがあるということは、自分にもそれをするカルマがあるのだ。
つまりこの例の場合だと、自分も(気づいているかどうかは別にして)、他の人に悪口や嫌味や批判や陰口を言っている可能性が高い。
これがカルマの輪だ。
カルマの縁が連鎖する、カルマの輪だね。
自分もその中にいるということだ。
【解説】
はい。これはわかりますね。いつも言っていることですね。つまり、もう一回書かれていることを言うと、例えば自分が何か人に悪口や嫌味や批判その他攻撃とかをされたとして、その自分を攻撃してくる人も、他の人にそのような目にあっている場合が多いと。そして、自分自身もそうだと。自分自身もそうだというのは、自分も実は、気づいているかどうかは別にして、他の人に同じ、例えば悪口や嫌味や攻撃をしてる場合が多いと。場合が多いというよりも、ほとんどというか100パーセントそうです。
ただしね、この話というのは、大変なある意味、秘儀なんです。秘儀ってどういうことかっていうと、これは100パーセント間違いないんだが、普通は――分かっている人もいるけどもね。おれ結構そういうのやってきたなっていう人もいるけど(笑)――結構分かってない人が多いんだね。
この「わかってない」というのは、そうですね、2つあります、パターンとしては。
一つは、本当に分かりにくい場合。本当に分かりにくいっていうのは、極論すればね、極論すれば最も分かりにくい場合は、今生でやってない場合がある。つまり過去世とかの問題の場合ね。
でも、これはまあかなり少ないパターンで、分かりにくいっていうのは、例えば、自分はそういうつもりないんだけど、実は相手が傷ついているとかね、そういうことをよく言ってたとか、そういうパターンの場合、これが一つ。
で、もう一つのパターンは、自分だけが分かってない場合(笑)。ね(笑)。つまり例えば――これも何回も来てる人には何回も出してる例だけど、わたし個人の例でいうとね、昔、わたしが、ある自分の近くにいた人がすごく口が悪くてね、人を傷つけるようなことばっかり言ってて、わたしもよくそういうこと言われて、非常にその人が苦手だったんだね。自分もまあちょっと傷つけられるっていうのもあるけども、他の人にもそういうふうにやっているからすごく批判的な心が出ちゃって・・・・・・昔ね。その人をどういうふうに考えたらいいんだろうって、すごく自分で思ってたことがあって、で、まあカルマの理論やあるいはすべては心の鏡っていう理論からいうと、当然自分にもそういう面もあって、その現われであるという見方ができるわけだけど、でもわたしはその当時ですよ、だいぶ前の話だけども、まだ自己観察がよくできてなくて、自分をどう観察してもそのような面があるとは思えなかったんだね。自分はちょっと――そのときの自分の感覚ですよ(笑)――自分は小さい頃から優しかったし(笑)、人をあんまり憎んだりとかっていう感じはなかったから、あんなふうに人を傷つけるなんてことはなかったって思ってたんだね。すごくそれで悩んでたことがあって、よく分かんなくて、過去世かなとか思ってたんだけど(笑)。
でも、ある友人にそのことを話したらね、その人はすごい驚いた顔をしてわたしの方を見て、「あなた、口悪いですよ」って(笑)。「ええ!?」と思って(笑)。「おれ、口悪かったの!?」って(笑)。
で、そこから正確に分析すると、確かにそうだと。でも、そう言われるまで気づいてなかったのは、つまり自分ではさ、みんなもそういう人いると思うけど、わたしよく、いつも言うように小学校のときとかすごくみんなの、どちらかというと人気者で、ワーってこうみんなを笑わせたり楽しませたりするのが好きだったんだけど、やっぱりその中には自分では気づかず相手を傷つけてたりとか、馬鹿にしたりとかね、あるいは自分では愛情表現として、ちょっと相手の欠点をバーって言ったりするわけだね。それは自分ではコミュニケーション取れてると思っているんだけど、相手は傷ついてる場合があって。そういうのを観察すると、「ああ、確かにかなりあったな」と。
そこでね、わたしは初めてそれを認めて、受け入れたんです。受け入れたってどういう意味かって言うと、ちょっともう一回話を整理しますよ。非常にわたしは苦手な人がいた。この苦手な人っていうのは、わたしが嫌いな要素をたくさん持ってると。わたしにはその要素がないのになと思ってる。この「わたしにはその要素が無いのにな」っていう思いっていうのは、自己認識が甘いっていうのは一つあるんだけど、もう一つは、この人は嫌だから、一緒ではないんだと、一緒だと認めたくないっていう強い防御反応があるんだね。でもそこで自分をちゃんと認識した結果、「あ、一緒だった」と(笑)。同じ世界にわたしもいたのだということを、すごく認めづらいんだけども、受け入れる感じで認めたときに、自分の中で大変な意識のチェンジが起こった。
これはね、一種の悟りといってもいいです。ニルヴァーナを悟るとか、そういう意味での悟りではないけども、でもこれも一種の悟りです。これがもし起きたならば、かなり心は解放されます。かなり自己認識が広がるというかな。だからそういう意味では、これは秘儀なんだね。
だからそこまでありありと分かればそれは素晴らしいんだけども――もう一回言うよ。今言ったことっていうのは、まず第一段階として、自分がやられること、あるいは自分が嫌だなと思う人が周りにいるっていうことは、自分にもその要素があるってことが最初からよく分かっている場合がある。これはまあ問題ないです。問題なのは、分かんない場合なんです。分かんない場合っていうのは往々にしてあるわけだね。あの人嫌いだ、あの人苦手だな、でもわたしはそんな一緒の面があるとは思えないし、思いたくもないと。で、これが「あ、あった!」と。「同じだった!」って気づくことが大変なことなんです。これがもし起きたとしたら、その人の心の解放はかなり進むことになる。
はい、だから、それがここに書いていることだね。だからこの一文というのは、みなさんは素直に「あー、なるほど」と思うかもしれないけど、たぶん普通の人が読んだ場合、多くの人は受け入れられない人がいると思います。「いや、そんなことはないでしょう」と。「それはまあ、いろんなパターンがあるじゃないですか」と。「そうじゃない場合もあるでしょう」っていう人がいると思うけど、答えを言うと百パーセント実はそうなんです。これがカルマの輪というやつなんだね。で、カルマの輪が連鎖すると。
で、このね、カルマの輪の中にいる者同士が、「縁がある」っていうんです。これをもって縁っていうんだね。
つまり、縁っていうのは条件っていうことなわけだけども、自分がそれをやる条件、あるいはやられる条件の中に、その相手と一緒にいるわけですね。同じ輪の中にいる。もちろんその人間っていうのはいろんな縁があるわけだから、いろんな縁によってそれぞれの縁と――縁というかカルマね。それぞれのカルマと、自分と一緒に形成している者たちとのいろんなパターンの縁があるわけですね。
例えば、M君を例に取るとしたなら、M君と例えばAさんという人は悪口の縁があると。M君はその人を介在してその悪口のカルマっていうのがずーっと回っていると。まあ、その人だけじゃないけどね。まあ、何人か、何十人か分かんないけど。また別の方面の縁というのは、例えば修行者の縁があると。その人とM君は修行者の縁があって、お互いに修行を高め合うようなカルマをやり取りしてると。また全然違うような、例えば、ある人といるととても食べ物がおいしいとかね。一緒に食欲を高め合うような仲とかね(笑)、いろいろあるわけですね。それが、しかも絡み合っているわけだね。絡み合ってる。それが非常に難しい縁ってやつで。
はい、これがカルマの輪ですよと。そのカルマの輪が連鎖する。それが自分もその中にいるんですよということですね。つまり、もう一回言うけども、いじめられる人っていうのはいじめるカルマがあるんです。ね。これがなかなか受け入れられないかもしれないけど。悪口を言われる人は、悪口を言うカルマがあるんです。もちろん逆もそうだけどね。悪口を言う人は悪口を言われるカルマがある。このやる、やられるのこの輪の中に必ずいるんだということだね。だから、それそのものから脱却しなきゃいけないんだね。