「無明」
◎無明
【本文】
『アニティヤーシュチ・ドゥフカーナートマス 二ティヤ・シュチ・スカートマキャーティラヴィディヤー
無常、不浄、苦、非我であるものに対して、常、浄、楽、我であると考えることを、無明という。』
これはびっくりしましたね。何がびっくりしたかというと、このあいだ四念処の話したよね? で、ここで出てくる四つの「無常、不浄、苦、非我」、まさにこれは四念処ですね。
つまり分かるよね? じゃあRさん、無常は何にあたったっけ? 四念処で。
(R)心。
心だね。一応四念処においてはオーソドックスには、心は無常だと。で、肉体は不浄であると。で、感覚っていうのは苦しみであると。で、すべての現象、事象っていうのは、ここでは非我と書いてますが、これは同じですね。仏教では「無我」っていいますが、「アナートマン」ってやつだね。実体がないと。
で、お釈迦様もそうだし、この『ヨーガ・スートラ』でも、すべてこのわれわれの世界で見える現象、あるいは自分自身も含めて、「すべては不浄であって、無常であって、苦しみに満ちていて、実体がないんだよ」っていうのを根本においてる。でも無明っていうのは真実が見えないので、不浄なものを清らかだと思い、無常ではなく永続していると思い、苦しみではなくて楽なんだと思い、実体がないんではなくてそこに私とか、あるいはあなたっていう実体があるって錯覚してしまう。この錯覚そのものを無明っていってるんだね。これが無明の定義ですね。
まあこの間、四念処の話をしたときの話を当てはめればすごく分かるかもしれない。例えば無常っていうのは、一瞬一瞬われわれはもう移り変わっている。それはもう物理的にも原子運動っていうのは一瞬一瞬変わってるし、われわれの心だって一瞬一瞬変わってるし、カルマの流れっていうのも一瞬一瞬変わってる。でもわれわれは無明だから、なんか変わってないように見える。変わってないように見てしまうからそれに執着してしまう。執着することによって、次の瞬間に何かが変わると、苦しみが生みだされる。でもそんなことは最初から分かってるんだね、無常っていうことは。でもそれが頭で分かったとしても、心が無常だと思えないっていうか。で、それが一つの無明です。
あるいは苦しみもそうだね。この間も言ったように、この世の現象っていうのをつぶさにリアルに観察すると、苦しみだと。例えば、それは感覚の――極端な例をこの間あげたね、もう一回言うけども、例えば最高の理想の異性と――じゃあ、この間PさんいなかったからPさんに聞くけども、最高の理想の異性と――まあ三十分にしよう。三十分間セックスができますと。もうありえないくらい最高の状態。しかしその後三十分間体をつかまれて、体中切り刻まれます。そういうお店があったら入りますか?
(P)入らない。
入らない。多分ね、どんな快楽主義者も入らないと思うんだよね。じゃあ昔快楽主義者だったTさんに聞いてみようか。Tさんどうですか? 入りますか? 入ってみたい? ちょっとは。
(T)いや、入りません。快楽主義だからこそ入らないです。
あ、そうだよね。いや、そうだと思うよ。でも今言ったのはこれは冗談じゃなくて、この間も言ったけど、今言ったのは触覚の問題。触覚っていう一つのパートを見て、その最高の部分と最悪の部分、これは表裏なわけだけど。これを「セットでどうですか?」って言ったら、「いりません」ってなる。意味分かります?
つまり苦楽があるってことは苦なんです。それをわれわれはすごく曖昧な状態で、「まあ、喜びもあるし苦しみもあるからいいんじゃない?」って捉えてるけど、それは非常に考え方が曖昧なんだね(笑)。ものすごいリアルにその極限状態を見ると、駄目なんです。
これはね、密教とかでは似たような修行やるんだね。例えば食べ物への執着をとるときに、自分の一番好きな食べ物と、あと腐ったような、見るのも嫌なような食い物を一緒に食うんです。そうすると「うまい!」「うわっ! まずい!」「うまい!」「うわ! まずい!」ってなって、どうでもよくなるんです(笑)。味覚自体から離れたくなるんだね。
つまりわれわれはものすごい正当でない見方で苦楽っていうのを見すぎてて、楽の幻影を人生全体になんとなく持ってるんだね。「人生って結構いいんじゃない?」と。まあ、いいとは言わなくても、「苦しみもあって喜びもあって、そんなもんじゃない?」って見てるけど、リアルに見ると苦しみなんです。