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モトゥルナート・ビスワスの生涯(1)

「彼のイシュタ(理想神)は常に彼に恵み深いだろうと――いや、それどころか、人間の姿をお取りになり、彼がどこに行こうともついていき保護するだろうと、モトゥルの占星図には記されていた。」

 モトゥルの亡くなったずっとあと、シュリー・ラーマクリシュナは、彼のもとを訪れる信者に、モトゥルナート・ビスワスの素晴らしい幸運について、上記のように説明なさった。

 ある日、シュリー・ラーマクリシュナは、ドッキネッショルのご自身のお部屋の北東に面したベランダで、そわそわと行ったり来たりしておられた。彼は霊的なムードであられ、周りの状況には完全に無関心であられた。モトゥルはそのとき、ナハバトの近くのクティ(バンガロー)の部屋に一人で座っていて、窓越しに彼を見ていた。不意にモトゥルはその部屋から走り出て、シュリー・ラーマクリシュナの御足に身を投げ出し、激しく泣き始めた。

 「どうしたんだい?」

と、シュリー・ラーマクリシュナは心配しておっしゃった。

「おまえは貴族階級の出で、ラーニー・ラースマニの娘婿じゃないか。人々はこのように振る舞うおまえを見て、なんと言うだろう? 落ち着きなさい。どうか起き上がっておくれ!」

 モトゥルは次第に自覚を取り戻していき、こう言った。

「ババ(彼はシュリー・ラーマクリシュナをこのように呼んだ)、わたしはついさっき、行ったり来たりしておられるあなた様をじっと拝見していたのですが――はっきりと見たのです。わたしの方に歩いて来られながら、もはやあなた様はあなた様ご自身ではなくなっておりました。あなた様は寺院の聖母カーリーであられたのです! その後、向きを変えて反対方向へお歩きになったとき、あなた様は主シヴァにおなりになられました! 初め、ある種の視覚的な錯覚かと考えておりました。目をこすって再び見ましたが、同じ光景を見ました。目を向けるたびにそれを見たのです!」

 シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃった。

「でもそのことについて、わたしは何も知らないよ。」

 モトゥルは再び感情に圧倒され、泣き始めた。

 モトゥルの若年期については、ほとんど知られていない。彼は一八一七年に生まれた。彼の実家は東ベンガルのクルナ地区(現在はバングラデシュ)にあり、偉大な詩人のラビンドラナート・タゴールの父、デヴェンドラナート・タゴールのヒンドゥー・カレッジで学んだ。ラーニー・ラースマニと彼女の夫のラージチャンドラの二人が、モトゥルの知性と如才のなさを見抜き、彼の手腕を認めた。そのようなわけで、彼らは三番目の娘のカルナマイーと結婚してくれるように頼んだ。
 しかしカルナマイーはモトゥルに息子を残して、一八三三年に亡くなってしまった。モトゥルを親族にとどめておくため、ラースマニはその後、彼女の四番目の娘のジャガダンバーを彼と結婚させた。一八三六年、ラージチャンドラの死後、モトゥルはラースマニの広大な私有地の管財人になった。

 ラーニー・ラースマニによって作られたドッキネッショル・テンプル・ガーデンは、一八五五年、五月三十一日に奉納された。シュリー・ラーマクリシュナの兄のラムクマルが、カーリー寺院の職務を行なった。シュリー・ラーマクリシュナは奉納の儀式に参加なさり、ガンジス河の岸にある美しい寺院の庭園に強く惹かれたが、数日が過ぎるまで兄とずっとそこで生活する決心がつかなかった。モトゥルはシュリー・ラーマクリシュナにお目にかかり、彼の寛大さ、純粋さ、質素な性質を拝見し、たちまち好い印象を受けた。当時、シュリー・ラーマクリシュナは十九歳だった。モトゥルはラムクマルに、彼を何か寺院の仕事――例えばカーリーの像を装飾するなど――に従事させるように頼んだが、弟は仕事を引き受けることを嫌がっているとラムクマルは言った。ほぼ同時期に、シュリー・ラーマクリシュナの甥のフリダイが、職を探しにドッキネッショルに来ていた。

 ある日シュリー・ラーマクリシュナは、川岸の粘土を材料にしてシヴァの像をお作りになり、それを礼拝なさった。そこを通りかかったとき、モトゥルはたまたまその像に気付き、礼拝が終わったらその像をくれるようにフリダイに頼んだ。モトゥルはその後、その像をラーニー・ラースマニのもとへ持って帰った。二人はシュリー・ラーマクリシュナの才能と、疑う余地のない信仰心に驚かされた。このすぐあと、モトゥルはシュリー・ラーマクリシュナに近付いて、彼の兄の手伝いで、聖母の像を飾り付けてくれるように説得した。フリダイが聖母の宝石の管理の責任を負うという条件で、シュリー・ラーマクリシュナは同意なさった。

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