yoga school kailas

「法の柱に結びつける」

【本文】

 心の狂象は、法の思念という大きな柱に縛り付けられて、それから離れないように、懸命に監視されるべきである。

 「私の心はどこに転ずるか」と、サマーディのくびきを、瞬間といえども投げ捨てることのないように、反省すべきである。

【解説】

 心を狂った象にたとえるのは前にも出てきましたね。我が心は、狂った象のように、いついきなり制止を無視して荒れ狂い、我々を地獄に引きずり落とすかもしれません。 
 だからこの心という狂象を、「法の思念」という柱に、しっかりと縛りつける、結びつけるのです。もうそれは、頑丈な鎖で結びつけるようなイメージでいいでしょう。つまり常に法、すなわち真理の教えを思念し続けることで、心が間違った方向に向かわないようにするわけです。

 くびきというのは、本来は牛の首にかけて車を引っ張らせたりする道具ですが、このたとえでは、心の狂象が暴れないように束縛している縛めみたいなイメージですね。それはサマーディであると。ここでいうサマーディというのは、広義のサマーディで、つまりたゆまぬ精神集中という意味でしょう。たゆまぬ精神集中を、瞬間といえども外さずに自己の心に向け続け、自分の心が悪のほうへと向かわないように監視し続けるというわけです。

【本文】
 
 しかし、危難とか祭礼などの場合において、それ(様々な実践規律)ができない場合には、随意に振舞ってよい。なぜなら、布施を行ずる時に、(場合によっては)戒は無視してもよいと説かれているから。

 けれども、自覚して事をなし始めた場合に、それより他の事を考えてはならぬ。まずそれに心を傾倒して、そのことを完成すべきである。

 かようにして、すべてはよくなされる。そうでなければ、事柄は両方とも成立しないであろう。そして、無自覚(無正智)という煩悩は増大するであろう。

【解説】

 まず最初の部分は、慎重に読み取らなければなりませんね。戒律や実践規律は、もちろんできうる限り守るべきですが、あまり頑なになって、本末転倒になってはいけないということです。結局目的は、自己の心を統制すること、そして悟ること、そして衆生に利益を与えることなのですから、そのために何らかの行いをなそうとするときに、日ごろのオーソドックスな心の持ち方や行いと反することをしなければならないとき、そのときは戒にとらわれずになすべきことをなせ、ということですね。
 この辺は頭を柔軟にして理解しなければなりません。ここは決して戒を軽視しているわけではありません。しかし戒にとらわれすぎてもいけないのです。結果的に何を目的に、何を今なさなければならないのかを自覚することが重要です。

 そして、もし自覚して何かをなそうとした場合には、他のことを考えてはならぬ、とありますが、これはどういうことかといいますと、たとえばAという修行を行なう場合と、Bという修行を行なう場合とでは、心の持ち方とか、行動の仕方とか、やって良い事と悪いことなどが違う場合があります。そしてAという修行をやろうと決意した場合には、それがBの修行にとって悪いとされていることだとしても、関係ないのです。
 たとえば例を挙げましょう。ブッダに食事を供養する祭典があったとします。そのとき、普段は食べないようなご馳走が出たとします。その場合は、「これはブッダへの捧げ物であるから、私の肉体を使って代わりに頂くことで、仏陀に供養させていただこう」と考え、それらの食事を味わい、十分に供養する瞑想をしながら、おいしく頂けばいいわけです。
 しかしそこでそれを食べながら、「俺は昨日まで質素な食事を続けてきたのに、こんな豪華な食事を食べてしまっていいのかな」などと考えてはいけないということです。質素に徹する修行をしているときにはそれに徹すればいいし、仏陀への供養の修行をするときにはそれに徹するのです。そうではなく、一方に心を残したまま他の修行や行為を行なうと、結局、両方とも成就できずに駄目になってしまうということですね。
 だから良い意味で、心を柔軟に保ち、この修行や教えの意味がどういうことであって、私は今何をなすべきなのかということを、正確に捉える必要があるのです。そうでないと、その心の固さによって、まじめなのにも関わらず、結局逆に無正智の状態に陥ってしまいますよ、という注意ですね。

 このような部分を見ても、本当にこの経典は実践的であると思いますね。深い意味合いを理解してこの経典を読むなら、現代においても十分に活用できる、修行者のマニュアル本になるでしょう。 

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする