yoga school kailas

「我想」

◎我想

【本文】
『ドリグダルシャナシャクティヨーレーカートマテーヴァースミター

知る働きとしての能力を、知る者と同一視することを、我想という。』

 これはちょっと難しくなってきたね。この「知る働きとしての能力」っていうのは、まあ「ブッディ」とかいうわけだけど、われわれの心の奥の奥にある要素だね。これは仏教的にいうと「行」とか「識」にあたるんじゃないかと思いますが、われわれの意識の非常に深くにある、われわれがこの世でいろんなものを経験したり、見たり、聞いたりする能力の根本にあるものです。これは「ブッディ」とか、漢字で覚醒の覚と書いて「覚」とかいうんだね。
 で、「知る者」っていうのは、これはヨーガでいう「真我」のことです。つまりわれわれの本質です。これはいつも同じこと言ってるけども、もう一回言うとね、真我っていうのは本来、最初から最後まで全く寂静であって、悟っていて、完璧であって、けがされることがない、絶対的な存在なんだね。で、この世のさまざまな現象を経験してるのは、今言った覚とかブッディとか、あるいは仏教的な言い方すると行とか識とかになるのかもしれない。あるいは密教的な言い方すると、密教ではよく微細な意識とか微細な風とか、そういう言い方するんだけど。根本的なそういう経験の主体みたいのがあるんだね。で、この経験の主体というのは、それを見ているこの真我とは全く関係がない。
 これは何回か言ったけど、映画にのめり込んだ人のようなもんだね。映画のフィルムが流れてますと。そこでは主人公がいろんな経験をしてるんだけど、それを見てる観客がいて、あまりにも観客がのめり込みすぎて、映画の主人公が悲しい場面に陥ると、観客も悲しくて泣いてしまう。で、映画の主人公が戦いに勝ったりすると、観客も「やったー! 勝ったー!」って気持ちになる。もう完全にのめり込んでると。これが「真我」と「知る働き」っていわれてるものとの関係です。
 つまりわれわれは本来は一切は関係がないんだと。関係がないんだけども、知る働きってものが経験してるいろんなものを自分と同一視してしまってる状態。
 で、それに対して私っていう――まあだから、ちょっと大雑把な例えを言うとね、コンピューターがありますと。コンピューターがいろんな計算をしますと。で、コンピューターにいろんなデータが入ってますと。データがいろいろ積み重なって、そのコンピューター独特のデータの集積ができますと。それをいろんな計算をはじき出したりしているのに対して「おれ」って思っちゃってるようなもんだね。「これはおれだ」と。だからコンピューターがそこで馬鹿にされたり、コンピューターが殴られたりすると、「うわっ! やめてくれ!」と。まるでそれが自分であるかのように、一体化してしまってるというか。
 本当は一体化してないんだよ。永遠に真我とそれからこの外的なものっていうのは一体化することはありません。これはね、実は密教のゾクチェンとかマハームドラーとかでも全く同じ例えを使います。つまり心というのは本来、水晶みたいなもんだと。水晶っていうのは透明であって、永遠にけがれることはないと。しかしその前に来たいろんなものを映し出すと。映し出したときに自分はその映し出したものと一つだと思っちゃうんだね。例えば水晶の前に豚が通ったとしたら豚が水晶に写る。そしたら「あ、おれは豚だ」と。写ってるものが自分と同一視してしまう。でもそれはもともと関係ないんだと。
 じゃあ水晶は豚によって一時的にけがれたのかっていうとけがれてないよね。ただ写ってるだけだから。だからこれが、真我とかわれわれの心の本質は永遠にけがれないんだよと。だから今もそうなんだよ。いつも言うけど、今この瞬間もここにいる全員は仏陀なんです。でもお釈迦様とわれわれの違いは、われわれは寝てる仏陀なんです。お釈迦様は目覚めた仏陀だと。でも仏陀っていうのは同じなんだね。
 例えば人間がいたとして――例えばCさんが寝てますと。Kさんが起きましたと。でもどっちも人間でしょ? 寝たり起きたりすることによってその主体が変わったりはしない。人間っていうのは変わらない。同じように真我とか仏陀の本性っていうのは、それが混沌とした無明に陥っていようが、あるいは目覚めていようがどっちも仏陀なんです。  だからこれが仏性とかいうわけだね。すべての衆生は仏性を持っています。でもこの仏性を持ってるって表現っていうのは勘違いしちゃいけないのは、「われわれは仏陀の種を持っていて、その種を育てていかなきゃいけないんだ」っていうんじゃないんです。そうじゃなくてさっきも言ったように、最初から完全な仏陀なんです。だから寝ちゃってるだけなんです。だから寝ちゃってて、夢を見てますと。その夢が、今われわれが現実だと思ってるこの輪廻だね。だから目覚めなさいと。
 でもいつも言うように、あんまり頭でそういうことばっかり考えちゃうと、目覚めた夢を見てしまいます。これは最悪です。夢の中で「あ、おれは寝ていたんだ」と。「今目覚めた」と。「仏陀なんだー」って夢をガーッてずっと見てると。これは最悪だね。抜けづらくなります、逆に。
 だから謙虚に、謙虚に修行した方がいい。しかしもう一方の頭で今言ったようなことは頭においておいた方がいいんだね。「われわれの本質は真我であり――ヨーガ的にいうと真我であり、仏教的にいうと如来の本性とか仏陀の本性とかいうのがわれわれの本質なんだ」と。
 ということだね。しかしそうではなくて、ただ流れているだけのカルマの働きみたいなものに対して、「これが私なんだ」って錯覚してしまうこと。これが我想だと。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする