yoga school kailas

「愚者」

【本文】

 愚者と行ないを等しくすれば、必ず悪趣に赴く。行ないを等しくしなければ、彼らの憎しみを受ける。愚者と交わって、何の利益があるか。

 瞬時に彼らは友となり、瞬時にまた敵となる。満足を表すべき場合に、彼らは怒りを発する。凡夫はなだめにくい。

 善福を教えれば、彼らは怒る。そして私を善福から妨げる。もし私が彼らの言うことを聞いて従わなければ、彼らは怒って悪趣に赴く。

 優れる者に対しては嫉妬を、等しいものに対しては抗争を、劣れる者にはおごりを、称賛によってはプライドを、そして非難によっては怒りを起こす。いつ、愚者から善福が生ずるか。

 自分の自慢、他人の非難、世間の面白い話--その他かようなある種の悪が、必ず一人の愚者から他の愚者へと伝わる。

 かように、彼はさらに他(の愚者)と交わり、その結果悪事を集合せしめる。私はただ一人、心を煩わされないで安楽に住しよう。

 人は愚人から遠ざかるべきである。もし遭遇したならば、慈愛をもって彼をなだめよ。ただし親交を結ばず、むしろ無関心・平静な聖者の振る舞いに倣え。

 あたかも蜂が花から蜜をとるように、法に役立つものだけを受け取り、あたかも新月のように(清らかに)、いたるところで彼らと親しく交わらずに、私は住しよう。

【解説】

 ここは少々冷たく感じられる人もいるかもしれませんが、お釈迦様の時代から、原始仏典などを見ると、「悪友と交わるな。善友と交われ」ということが、繰り返し説かれています。
 あるときは、仏弟子アーナンダが、お釈迦様に、「善友を持つということは、修行の半分を占めるほど重要なものではないでしょうか?」と尋ねたところ、お釈迦様が、
「アーナンダよ、そのように言ってはいけない。善友を持つということは、修行の全てなのである」と答えた経典もあります。
 そして、「善友と出会ったなら、彼とともに行け。もし善友と出会えなかったなら、悪友とともにいるよりは、むしろきっぱりと、サイの角のように、ただ一人歩め」と、有名な「スッタニパータ」の一節にもありますね。

 それはなぜかというと、結局人間の心というものは、そんなに確固としたものではないのです。瞑想を深めていくとよくわかりますが、心とは、情報の集まりに過ぎません。無常であり、実体がなく、経験や情報の積み重ねにより、瞬間瞬間、移り変わり続けているものです。
 だから人間は、自分で認識している以上に、接する人々の影響というものを受けるんですね。
 もう一つ別の角度から説明すると、たとえばここに修行者がいるとして、この修行者は、良い心の部分もあれば、当然、悪い心の部分も持っています。多くの心の構成要素のうち、いくつかのある部分にスポットが当たって生きているわけですが、たとえば友人が悪しき心、悪しき言葉、悪しき行為の表現をしたとき、それを見た、聞いた自分も、悪しき心の要素が引っ張り出されてしまうのです。これはちょうど、何度か書いている、「梅干を見てよだれが出る」のと同じ現象です。たとえば人の陰口を言う友人と一緒にいると、自分の中のそういう部分も引き出され、自分もいつの間にか陰口を言っているかもしれません。

 もちろん、この入菩提行論は、大乗の菩薩行について書かれたテキストですから、そういう愚者を見捨てろ、と言っているわけではありません。それは、第七章までを読んでいただければ、よくわかるでしょう。たとえば前章までは、全ての衆生を仏陀と同様に思い、感謝し、奉仕せよ、とまで説かれていました。しかしここは、あくまでも心を寂静にする瞑想について書かれているので、こういう表現が出てくるんですね。
 だからこういう実践的な教えを学ぶ場合は、頭を柔軟にしなければなりません。幾層もの真理があり、それは今自分が何をなすときか、条件によって変わってくるというわけですね。頭が固いと、「あそこではこう書かれていたのに、ここでは逆のことが書かれている」と、混乱してしまいます。
 この入菩提行論は、あくまでも実践的テキストなのです。まさに、「菩薩入門」という感じです。だからその全体像をつかんで理解するとともに、自分の今の条件下において今どのパートを実践すべきかを、常に柔軟に検討して実践する必要がありますね。

 ところで、これらに出てくる愚者の表現は、我々自身が気をつけなければいけない点でもありますね。
 たとえば、途中で出てくる、

「優れる者に対しては嫉妬を、等しいものに対しては抗争を、劣れる者にはおごりを、称賛によってはプライドを、そして非難によっては怒りを起こす」

という部分などは、修行者といえども陥りやすいところなので、気をつけなければいけません。
 本当は、優れた者を見たら、称賛し、その優れた部分を学ぼうとしなければなりません。
 等しい者を見たら、励ましあい、お互いに切磋琢磨すべきでしょう。
 劣った者には慈悲を発し、自分ができる手助けをしてあげるべきです。
 称賛されたときには、慢心を持たず、それが自分自身ではなく、徳そのものに対する称賛であると認識すべきです。そして、そのように他者を称賛できる相手の心をこそ称賛すべきです。
 そして非難されたときは、自分の悪しき点をチェックできるチャンスであると捉えるとともに、悪業の浄化を喜ぶべきです。

 菩薩行を進む者は、このように自己の心を常にチェックし、良い状態を保ち続けます。そしてそれが確固としたものになっていったなら、自分が悪友に悪影響を受けるのではなく、自分の菩薩の心の影響によって、悪友さえも自然に心を変化させられるような状態になっていくでしょう。それが一番の理想ですね。しかしそのためには、まずは自分の瞑想、心の状態を確固とした聖なるものに確定しなければならないのです。そのためにはまずはしばらく悪友とは離れておれ、ということですね。よくたとえ話として出るように、「泳げない者には、おぼれている者を救うことはできない」のです。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする