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「心の重要性」

 
【本文】

 精鋭な心があればそれだけでブラフマンとの合一などを勝ち得ることができるが、心の働きが鈍ければ、言葉と体に助けられても、それらを得ることはできない。

 長期にわたってあらゆるマントラを唱え苦行をなしても、心が他に走り鈍重であれば効果はないと全智者は説かれた。

 苦しみを滅ぼし安楽を得ようと、彼ら(衆生)は天空(のごとき輪廻界)をさまようが、全く無益である。それはこの神秘な諸法の根源である心が堅固に修められていないからである。

 かようなわけで、私は心をよく支配し、よく守護しなければならぬ。心を守護する誓いのほかに、他の多くの誓いに何の用があるか。

【解説】

 仏教では我々の活動を身・口・意、すなわち身体の行動、言葉、心の働きの三つに分けます。
 修行において最も重要なのは心です。もし心に集中力があり、雑念がなく、透明でよく調えられていれば、それだけで、修行を成就し、悟りを得ることができるでしょう。もともと古典的ヨーガであるラージャ・ヨーガは、結局心の集中力による瞑想を第一においています。原始仏教も、心による瞑想がメインです。
 しかしそれだけでは修行を成就できないほど我々の心が堕落してきたので、肉体を使った修行、そしてマントラや詞章などの言葉を使った修行によって、心の修行が補助されてきたわけですね。
 しかし体の修行も言葉の修行も、あくまでも心を浄化し、鍛え、調御するという目的のために組み立てられているということを忘れてはいけません。もしその心という部分をおろそかにし、体と言葉の修行だけを続けても、修行の成就を得ることはできないでしょう。逆に、もし心が速やかに調御されるなら、体と言葉の修行がなくても、すべての修行を成就することができます。よって心こそが最も重要なのだ、というのがこの最初の詩の意味合いです。
 この「心がすべて」ということ、あるいは高度な念正智に主眼を置いた考え方がゾクチェンなどにはみられますが、ここにおいても我々は間違わないようにしなければなりません。確かに心のコントロールに成功すれば、他の修行は一切いらないということもできますが、現代においてそれが実質的にどれだけ難しいかということですね。もともとシンプルだったヨーガや仏教の修行が、人の心の堕落に対応してどんどん複雑化していったように、現代においては、様々な形で体・言葉・心のそれぞれからアプローチをしないと、なかなか実質的な進歩を得るのは難しいと思います。

 修行者でさえ、心の重要性を知らなければ、永い間修行したとしても、無益だといわれます。では修行や真理を知らない多くの衆生はどうでしょうか? 修行者も他の衆生も、幸福を求めて進んでいるという点では変わりありません。しかし多くの衆生は、やはり心の重要性を知らず、単に目先の富を増やすとか、人から良く見られるとか、その社会で観念的に幸福と定義される状態に自分を合わしていくことに奔走しています。そういうことを繰り返し、ひたすら輪廻の世界をさまよい続けているのが多くの衆生です。
 しかし彼らは「神秘の秘密の法則」を知らないがゆえに、どんなに幸福を求めても全く得られることはなく、苦しみさまよい続けなければならないのです。その「神秘の秘密の法則」とは何でしょうか?--それが、「自らの心を堅固に修めること」だというわけですね。

 このように、修行者も、修行していない普通の人も、心の働きの重要性を知らないがゆえに、無益に輪廻の世界をさまよい、苦しんできたのです。よってそれを知った私たちは、今こそ、この自己の心を守らなければなりません。
 自己の心を守るというのは、もちろん、エゴを守るという意味ではありません。この「心を守護する」という言葉こそ、この章のテーマである「念正智」の意味ですね。つまり心を守るとは、自己の心を真理から一瞬も外さないようにするということです。あるいは、透明で覚醒した心の状態を常に保ち続けるということです。 
 これこそが、いや、これのみが唯一最も重要であるということを、シャーンティデーヴァはここで強調していますね。

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