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「女性を誹謗してはならない」

◎女性を誹謗してはならない

 はい、「女性を誹謗してはならない」。何でわざわざここで「女性を誹謗してはならない」っていうのが出てくるかっていうと、もともと結構仏教って男尊女卑的なところがあるんだね。女性はカルマが悪いとか、女性は非常に心がけがれているとか。実際原始仏典の教えとかにいっぱいそういうのが出てくる。

 密教においてはそうじゃなくて、さっきも言ったように、この体もそうだけど、いろんな、本来はけがれていると見られているいろんなエネルギーであるとか、いろんなものを利用して高い境地に至ろうとするから、この世のものが、究極的にはこの世のものがすべて――まあまさにバクティ・ヨーガに近いんだけど――仏陀の愛であって、すべてが完璧だっていう見方をする。特に女性っていうのはダーキニーって見るんだね。すべての女性はダーキニー、つまり偉大なる覚醒を得た女神の現われだと。そのような見方を持たなきゃいけない。

 だからこれは世界をどう見るかの違いなんだね。例えばラーマクリシュナとかもいってるのは――まあラーマクリシュナっていうかバクティ・ヨーガの世界では、すべての女性を母なる神と見ろっていうんだね。まさにこれは密教の見方ととても近い。女性をけがれてると見ないんです。女性は母なる神――つまりラーマクリシュナにとってはカーリーだね。すべての女性をカーリー女神と見るんです。そういうものの見方によって、この世のけがれを浄化していくんだね。

 つまり相手がけがれてるんじゃなくて、こっち側がけがれてるんです。これはすべてはね、トリックがあるんだね。トリックがあるっていうのは、例えば基本的な仏教とか基本的なヨーガの教えでは、例えば男性の修行者に対して徹底的に――女性に対してはもちろん男性なんだけど――つまり異性と会ってはいけない。見てもいけない。会話を交わしてはいけない。徹底的にこう遮断されるんだね。男性の修行者が女性と会ってはいけない。なぜですか? 女性と会うと性欲が出るからだと。え? それはでも誰のせいなんだろう? 女性が悪いんだろうか――そうじゃないんだね。男性の見方がけがれているだけだと。

 もちろんこれは女性から見た男性も同じだよ。つまりもちろんさ、発情とかホルモンとかそういうのもあるかもしれないけど(笑)、そんなのは二の次なんだね。二の次であって、あるかわいい女の子とかを見て、「ああー!」って性欲が出てきました。これはその子のせいじゃない。こちら側の見方がけがれているだけなんです。こちらにけがれた見方があって、それがバッとそれと一致するから、自分の中でそれが出てきてしまう。いつも言うように、梅干を見てよだれが出るのと同じでね。間違った認識があるから。

 それを古いっていうか原始的なやり方では、捨断の方向――つまり「女性は糞尿の袋だ」とかね、そういう方向でやってたんだけど、密教においては全く真逆。女性を神と見る。それによって、そのようなけがれた世界に足を踏み入れないんだね。

 密教っていうのは、どちらかというと全肯定的なんだね。だからバクティ・ヨーガともとても似ている。一切は苦だよとか、一切はけがれてるよっていうんじゃなくて、一切は仏陀の愛でできた輝かしい世界だよっていう見方をする。だから女性に対しても、さっきも言ったように、ダーキニーとしてとても――ダーキニーっていうのは密教ですごく重要な役割があるから、女性が劣っているとかね、女性はどうこうだと誹謗してはならないっていうことですね。

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