yoga school kailas

「カーラチャクラ・タントラにおける十四の戒律」

◎カーラチャクラ・タントラにおける十四の戒律

 はい、で、次がですね、「カーラチャクラ・タントラにおける十四の戒律」ってあります。これは、今読んだ十四っていうのは、一般的な密教の戒律なんですが、カーラチャクラっていう、これは密教の最後の経典ですね。この最後のカーラチャクラといわれるものに関しては、若干ちょっと内容が違う。似てるんだけどね。これは参考までにって感じで十四挙げてあります。ではこれもちょっと読んでみましょうかね。

【本文】
 カーラチャクラ・タントラにおける十四の戒律

一.師の心を乱してはならない。

二.師の指示にそむいてはならない。

三.法友の過ちを批判してはならない。

四.慈愛を捨ててはならない。

五.ボーディチッタを漏らしてはならない。

六.顕教の修行で到達する空と、密教の修行で到達する空に、差別を設けてはならない。

七.資格の無い者に密教を漏らしてはならない。

八.五蘊をけなし、粗末に扱ってはならない(極端な苦行など)。

九.空の見解を捨ててはならない。

一〇.慈愛に関して心と言葉に矛盾(偽善)を持ってはいけない。

一一.密教の修行に疑念を持ってはいけない。

一二.聖者の行為を、観念的観点から批判してはいけない。

一三.密教の修行を拒んではならない。

一四.女性を誹謗してはならない。

◎法友の過ちを批判してはならない

 はい。これはかなりかぶってるところがあるんで、かぶってないところだけ説明するとね、まず、「師の心を乱してはいけない」「師の指示にそむいてはいけない」。この辺はちょっとかぶってるけどね。これは分かりますね。この書いてあるとおりですね。
 「法友の過ちを批判してはならない」。これも分かりますね。例えば法友の過ちを師匠にあげる。これはいいです。あるいは法友の過ちを、実際それを例えば自分が本当に相手のためになるやり方で修正してあげられるんだったら、それはそれで素晴らしい。
 例えば法友が――まあ過ちっていろいろあるだろうけど、本当はやってはいけないことをやって、それを「それは駄目だよ」って言って、その言われた人が、「ああ、本当に分かりました」と改心すると。これはいいことだね。でもそうじゃない、自分の観念でそれを言ってしまったり、あるいは言うべきときじゃないときに言ってしまったり、あるいは言われた方が逆にそれによって心がねじくれてしまったり、いろんなパターンがある。だから何にせよ、人の過ちはあまり言わない方がいい。
 過ちっていろんな意味での過ちがあるけど、失敗っていう意味での過ちと、それからやっちゃいけないことをやったっていう過ちと、いろいろあるだろうけど、何であれ批判はあまりしない方がいいね。
 で、師にあげるのはいい。あるいは本当にどこから見ても「自分が今言うべきだ」と思ったら、それはそれでかまわない。これはとても難しいところだね。

◎ボーディチッタを漏らしてはならない

 五番目、「ボーディチッタを漏らしてはならない」。これはつまり射精をしてはならないっていうことです。ここでいうボーディチッタって、菩提心っていう意味なんだけど、実際は複合的な意味があって、精液、精子の意味もあります。女性の場合はちょっと違うけど、つまり性エネルギーを漏らすなっていうことだね。だからこれはちょっと厳しい。厳しいっていうか、射精したらもうその戒律破ったことになる。
 つまりさっきの説明でいうと、「よし、十六生守ったら解脱するのか」と思って十日目ぐらいに射精しちゃったら(笑)、もうアウトです。もうやり直し。だからそれだけ性エネルギーっていうものが密教においては――いつも言うように、道徳的な意味じゃないんですよ。われわれが悟りに使うこのチャンダーリーとかトゥモとかいわれる、あるいはクンダリニーとかいわれるこの生命力の源が、男性の場合は精子なんです。女性の場合はちょっと分かりにくいけど、まあ性エネルギーだね。だからそれを、たかだかセックスとかオナニーとかで漏らすのは非常にもったいない。それを漏らしただけで、ここでは戒律違反っていうことなんですね。

◎顕教の修行で到達する空と、密教の修行で到達する空に、差別を設けてはならない

 はい、六番は、これは顕教――つまりゆったりと行く道と、密教のスピーディーな道、どっちも最終的な空に至るわけだけど、到達点の空は同じだっていうことだね。同じなんだけど、「いや、密教の空の方が素晴らしいんだ」という見方を持ってはいけないっていうことですね。

◎慈愛に関して心と言葉に矛盾(偽善)を持ってはいけない

 はい、七番は分かりますね。八番も同じですね。九も同じですね。
 はい、十番。これも読んだとおりですが、「慈愛に関して心と言葉に矛盾(偽善)を持ってはいけない」。つまり、言葉では慈愛っぽい言葉を語る。しかし心では嫌悪とかプライドとかの塊で慈愛が全然ない。こんなのは駄目だっていうことだね。つまり偽善っていうことですね。 

◎聖者の行為を、観念的観点から批判してはいけない

 はい、十二番は、聖者の行為を――これは密教を拒んではならないとか疑念を持ってはいけないとかに通じるけども、つまり聖者、完全な聖者っていわれる人が、ちょっと理解できない行為をすることもある。でもそれはさっきも言ったように、ちょっとこう観念を超えた道に入ってる場合、当然観念の中にいるわれわれから見ると全く分からないこともある。でも分からないことは分からないでいい。分からないだけだったら全く問題ない。でも自分の観念で聖者のことを批判してはいけないっていうことだね。
 はい。後はまあ同じですね。

 はい。じゃあ今日は長かったけど、これで終わりにしましょう。おつかれさまでした。

(一同)ありがとうございました。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする