yoga school kailas

「唯一の存在への帰依」

2007.03.07 
バガヴァッド・ギーター第7章「ジュニャーナ・ヴィジュニャーナ・ヨーガ」

◎唯一の存在への帰依

 バガヴァッド・ギーターは、ずーっと七章まで来て分かると思いますが、いろんな角度から結局同じようなことを言っているわけですね。一つは、至高者――ここでいう至高者っていうのは「バガヴァーン」。バガヴァーンってね、クリシュナのことなんだけど、仏教では「世尊」っていうね、バガヴァーンって。みんなの知っている言葉だと、例えばバガヴァーン・ヴァイローチャナ、これは大日如来のことですね。あるいはバガヴァーン・アミターバというと、阿弥陀如来のことですね。だから体系は違うけど同じです。仏教でももちろん、例えば阿羅漢とか仏陀とかいろんな呼び名があって、その最高のものは如来とか世尊とかいうわけですね。この世尊はバガヴァーンだと。同様にこのヒンドゥー教体系の最高の存在バガヴァーン――同じ言葉でクリシュナを表わしているわけだね。
 これはラーマクリシュナの言葉をつかうならば、一人の役者が劇ごとに違うお面をつけているようなものであって、例えば「クリシュナは偽者で、大日如来が本物なんだ」とか、そういうのはナンセンスな話で(笑)、それぞれの系統の中に、それぞれにあった形で現われてると。
 例えばインド神話とかで現われる神っていうのは、当然実際にインド人が昔よく着ていた服とか、いろんな武器とか、そういうのを持った姿で描かれる。あるいはチベット仏教の神とかになると、それに若干チベット流のアクセントが加わってたりする。あるいは中国で仏教の仏陀とか神が描かれる場合は、ちょっと中国風になってる。ね。
 つまりどれが本当かっていったら、どれも本当じゃないわけだね。
 本当はわれわれの五感では認識し得ない存在があって、それを一応われわれの根付いたイメージで見るわけだね。
 だから『チベット死者の書』とかも同じですね。『チベット死者の書』とかでは、死んで、はい、まずこういう光が来て、その後例えば大日如来が現れますよ、とか、阿弥陀如来が現れますよ、とか。それはこういう姿をしていますよとかあるわけだけど、それはあくまでもチベット仏教っていうシステムの中で、教えを学んできた人のためのイメージなんだね。その本質は同じなんだけども、例えばキリスト教的な文化の中で生きて、キリスト教の教えを学んできた人には、キリスト教的なイメージの如来が登場するだろうし。その辺はあまり固くイメージとかにこだわらない方がいいと思うね。そうじゃなくて、そういう人間が作った観念的な名前とか概念を超えた唯一の存在があるんですよと。それがバガヴァーンだと。そのバガヴァーンに帰依すること。そのためには、このエゴとか自分の考えとか観念とかを、全部投げ出し明け渡すこと。これが大事なんだよと――これをいろんな角度から言っているのが、このバガヴァッド・ギーターだね。

◎二種類の智慧

【本文】
 至高者はこうお説きになった。
『プリター妃の息子よ! よく聞くがいい。心を私に向けて帰依し、ヨーガをしっかり行じなさい。
 そうすれば、君は疑いなく私に精通することができる。

 私は五感を通して獲得できる知識と、悟りを通してのみ体得できる完全なる叡智、
 つまりこれ以外に知るべきものは何一つないという完全なる絶対なる叡智を君に与えよう。

 はい。つまりこれは、われわれが修行によって、あるいは教えを学ぶことによって体得できる叡智、智慧というのは二種類あるということだね。
 一つは五感によって、あるいはまた別の言い方をすれば、論理的に思考によって認識できる智慧です。例えば、この世は――インド的な言い方をすると――地・水・火・風・空の五大元素でできてますよと。地とは固体ですと。水とは液体の状態ですと。火とは熱エネルギーだね。風っていうのは生命エネルギー。この三態の変化っていうのは、われわれは化学でも習っているし、で、普通では認識できない生命エネルギーみたいなものは、修行によって気の流れとかがだんだんわかるようになってくる。この辺っていうのは、粗雑なものっていうのは誰でも分かってるし、それがちょっと高度なものになってきたら、修行によってわれわれが認識できる領域の世界なんだね。つまり相対的な世界の認識っていうかな。これはわれわれが修行によって、あるいはある程度教えを学ぶことによって理解できる範囲の世界だと。
 もう一つ、そうじゃなくて、完全なる叡智の世界がある。これはヨーガ・スートラの勉強会でも言ったけども、それはもうわれわれのこの五感とか、あるいは論理的分析ではなくて、われわれがサマーディに入って、そして直接的に知るべきというか、直接的にそこに触れるべき真理なんだね。「触れる」っていう表現がいいかもしれないね。「見る」とか「聞く」ではないんだね。あるいは考えて到達するんでもない。そこにある真理に触れなければいけない。絶対的な叡智があると。それは言葉では表現できないんだけども、このギーターにおいては、クリシュナはいろんな形で言葉で表現しようとしているわけですね。

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