yoga school kailas

「名誉と称賛」

【本文】

 称賛と名誉と尊敬とは、功徳にも寿命にも役立たない。力のためにもならず、健康にも、また私の身体の安楽にも無効である。

 さて、これらは自利を知る賢者が自己の目的とするところであろう。
 そして心意的(官能的)快楽を願うものは、酒、賭博等に身をささげるであろう。

【解説】

 引き続き、自己の称賛欲求と、他者への嫉妬心に対する考察が続きます。
 ところで、この部分は、二つくらいの意味が考えられますが、どちらにしろあまり重要ではないと思われるので、あえて解説はしません。各自で読み取ってみてください。

【本文】

 名誉のためには自身の財を浪費し、命さえ捨てる。しかし(名誉を示す)文字は、食べることができるか。また死すれば、その快楽は誰に帰するか。

 砂の家が壊れたときに、子供が悲しい声をあげて泣く様に、称賛と名誉が失われたときに、私の本心が現われる。

【解説】

 ここは読んだとおりで、合理的に考えて名誉や称賛という形のないものを追い求めることの無意味さを説いていますね。

 そして、普段、名誉や称賛にとらわれていないように思える人も、それらが失われたときに、苦しみが生じ、実は名誉や称賛に強くとらわれていた本性が姿を現わす、ということですね。

【本文】

 まず、声は心なきものであるから、「声が私を称賛する」ということはありえない。

 --「(私を称賛することで)他人が実に喜びを感じるので、それが喜びの原因になる」というなら--

 それが他についてであろうと、私についてであろうと、他人の喜びが私に何の関係があるか。その喜楽は、彼だけに属している。わずかの部分といえども、私には属しない。

 もし他人の楽によって私に楽が生じるとすれば、あらゆる場合に生じるはずである。(それなのに)他を恵むことによって人に楽が生じた場合、なぜ私はそれを楽しまないか。

 かようなわけで、「ほめられているのは私である」と考えた時に、自己に喜びが生ずる。とはいえこれまた、自己とは関係のないことであるから、子供の遊びのようなものである。

【解説】

 名誉や称賛を良しとするエゴに対しての、更なる追求が続きます。
 
 称賛の言葉。あるいは称賛の文字。これらの音声や言葉自体は、まず音声は空気の振動に過ぎないし、文字はインクの染み込みに過ぎません(笑)。だからこれらを見たり聞いたりして喜ぶことの無意味さをまず説いていますね。

 次にエゴが、「他人が私を称賛して喜ぶ。だから私も喜ぶのだ」という反論をします。
 これに対する智慧の答えが、まず、他人の喜びは、自分とは関係ないではないか、というものですね。
 しかし教えには、四無量心というのがあります。この大乗の教えにおいては当然、他人の幸福は自己の幸福であり、他人の苦しみは自己の苦しみであるという、自分と他人の区別をなくした見解が必要になってきます。
 しかしその場合は当然、あらゆる場合においてそうならなければならないのです。しかしそうではなくて普通は、自分を他人が称賛して喜んでいるときにはその他人の喜びと同化し、他の人のために他人が喜んでいるときはそれを喜ばないという、エゴの矛盾があるわけですね。

 だからまず、そういう言い訳をせずに、エゴによって、自分がほめられているという認識が生じたときに喜びが生じるのだということを認識しなければなりません。そしてそれは全く実体がない、子供の空想遊びのような喜びに過ぎないんだよ、ということも認識しなければなりません。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする