「他者の非難をしない」
◎他者の非難をしない
【本文】
⑦他者の非難をしません。
はい、これもこのままですね。これはまさにこのまま「他者の非難をしない」。
特に、いつも言うけども、正義感が強い場合。特に――ここではよく阿修羅タイプっていうんだけど――阿修羅タイプの場合、風紀委員タイプになりがちなんだね。風紀委員タイプっていうのは、「あなた間違ってる! あなたはこうだ!」、あるいは「あの人は絶対まちがってる!」と。「みんなどう思いますか?」と。「あの人ひどいですよね!」――これはやっちゃいけない。なぜならば、それでですよ、その人が変わるならいいよ。つまりわれわれがやらなきゃいけないことは、もし間違っている人、あるいはちょっと間違った生き方をしてる人がいたら、その人が結果的に正しくなるように持っていってあげる。これはいいことです。でも、表面的に批判をする。これはなんの意味も無い。ただ自分の優越感と、相手への闘争というか――「お前は間違っている」と。「おれは正しいんだ」――それを表現したいっていう気持ちっていうかな。ただこれに過ぎない。これは何のメリットもありません。
じゃなくて、仮に自分が一時的に馬鹿にされようが、もしくは相手のその間違ったことによって傷つけられようが、結果的に間違ってる相手がその間違いから正される方向に持ってくことが大事なんだね。
だから、これも逆に陥りやすい罠なんです、修行者がね。例えば教えを学んで、「あ、こういうふうに生きなきゃいけない」って学んで、そうするとそうじゃない人を非難したくなる。でも非難したって何も始まらない。ね。そこで自分の優越感とかエゴが増すだけだと。
だからベースとしてですよ、ベースとして、決して人を非難しないっていうのは、これも頭に入れといたらいい。
これも前、横浜教室のトイレに貼ってあった、サーラダー・デーヴィーの言葉でもあるよね。Tさん、何だっけ? その言葉。
(T)?
サーラダーのね。トイレに貼ってあった言葉。
(T)欠点を見てはいけない……
そうそう。他人の欠点を見てはいけないと。
(T)自分も汚れる……
そう。他人の欠点を見てもね、それは自分の心が汚れるだけだと。何の利益がありますかと。
まあこれは深い話をしようと思えばちょっと長くなっちゃうのであまり深いことは言わないけど、もうこれもいつも言ってるように、他人に見える欠点っていうのは自分の欠点に過ぎないわけだね。自分の欠点の投影として他人のけがれが見える。で、それを、それに注目したり批判したり、あるいはそれを自分の中で「あの人はこうだ。あの人はこうだ」ってやるのは、自分自身をけがしてるに過ぎない。
他人の長所を見るのはもちろんいいよ。他人の長所を探す、これは素晴らしいことです。でも他人の欠点を探してはいけない。批判してはいけない。
つまり、また別の観点から言うならば、自分だって欠点だらけなんです。で、他人も欠点だらけです。これは当たり前のことなんです。みんなそれぞれ長所と欠点がある。自分も長所と欠点がある。でもある特定の他人を捕まえて、特定の欠点を攻撃したり、「あの人こうで……」っていうことに何の意味があるのかと。それは同時に、それを投影してる自分の欠点がどんどん増大するだけだと。
だから、これも原則として、決して他人を批判しない。非難しない。あるいは欠点を見ない。
ただ役割がある場合は別です。つまり自分はこの人を何か正さなきゃいけないという役割とかね。あるいは例えば自分は――例えば弟子がいて、その弟子を何とかしなきゃいけない、導かなきゃいけないとか。役割がある場合は全く別だね。あるいは修行上の話だけじゃなくてね、一般な話でも、例えば学校の先生であるとか、ある程度の役割がある場合は、その枠組みの中でそういうことをやることが許される場合はあるけども、基本的には、一般的には、他人の欠点は決して見ない。あるいは他人の批判を決してしないと。これは原則だね。
◎自他の比較をしない
【本文】
⑧自他の比較をしません。
はい、これも読んだこのとおりですね。自分と他人を比較しない。われわれは大体自分と周りを比較したがる。で、そこで優越感に浸ったり、逆に卑屈になったりする。それも全く意味が無いんだってことだね。
だからもうベースとして、自分と他人を比べない。あの人はこうだけどぼくはこうだとかね。決してその自他の比較をしないってことだね。まあこれはこのままですね。