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「五つの基準」

◎五つの基準

【本文】

5 五つの基準

 すべての教えを、「自我の放棄」と「菩提心」という一つの意図に統合し実践してください。
 慙愧の念に従ってください。
 常に心に喜びだけを育んでください。
 学びの基準は、実際に心が転向することです。
 偉大なる五つのしるしを持ってください。

 
 ここはまず、「すべての教えを『自我の放棄』と『菩提心』という一つの意図に統合し実践してください」と。

 はい、あの、これ「一つの意図」って書いてあるね。「自我の放棄」と「菩提心」って二つ書いてあって、「一つの意図」ってなってるのは、つまり「自我の放棄」と「菩提心」が表裏だってことだね。

 つまり、自分と他者っていう束縛の中に常にわれわれはいるわけですが、このうちわれわれは自我を大事にし、他者はどうでもいいと。まあこれが普通なわけですが、そうじゃなくて、自我を放棄し、そして人々のために生きると。これが「自我の放棄」と「菩提心」ね。で、すべての教えのエッセンスはここにあるんだと。だからそこに自分の修行の意図、動機をすべて持っていくってことだね。

 逆にいうと、これはいつも言ってるけど、修行が進んでいるかどうかの目安もここにあるんです。つまり、修行が進んでるかどうかっていうのは、菩提心が増えてるか。あるいは自我が減ってるかなんだね。

 つまり、いかにかたち上修行をたくさんやってても、なんかエゴが強くなってて――もちろんね、段階的にはあるよ。潜在意識に入ってエゴが出てくるときはあるけど、まあそれは別として。長ーい目で見てなんかエゴが増えてると。で、菩提心がなくなってると。あるいは全然菩提心が増えてないと。これは修行が全然、かたち上いろいろなことをやっていても、修行が進んでいるとはいえない。だから修行が進んでるかどうかの目安は、そこだけなんです。

 もちろん、いろんなことをこなすのは大事です。例えばマントラをこれだけ唱えましたと。瞑想をこれだけ終わりましたと。チベット仏教でも――まあここでもそうだけれども、いろんな加行があるんだね。例えば五体投地を十万回ですと。ヴァジュラサットヴァのマントラを十万回ですと。あるいは曼荼羅供養を十万回ですとか、いろいろあると。で、それをたくさん終えてる人もいっぱいいる。「いや、わたしはこれとこれとこれを終えました」と。でも、その人がエゴに満ちてたら、それはなんの意味も無い。つまり、それはその人を測る基準にはならないってことだね。

 例えばここに二人の人がいて、「あなたどれだけ修行やりましたか?」――これは、その修行者を測る基準にはならない。つまりね、手段は結果じゃない。これは分かるでしょ? 

 つまり例えば――まあいつも野球を例えに出すけど(笑)、野球選手がいて、「おれはイチローよりも、あるいは王選手や長嶋とかよりも、何十倍も素振りをした」と。「どうですか」――とか言われても、その人が全然野球の試合とかやってなかったら全く意味が無い(笑)。ね(笑)。つまり素振りっていうのは、野球がうまくなるための方法だよね。方法であるけれども、でもそれで、もしうまくなってなかったとしたら、それは意味があったのかってことになる。

 じゃあ素振りは意味がないんですかっていったら、意味が無くは無い。うまくなるための方法だから。だから修行っていうのはすべてそうなんだね。何で五体投地いっぱいやるんですか?――それはわれわれのエゴを破壊し、あるいは帰依の力を強めるっていう意味があるわけだね。だからやることは素晴らしいし、やらなきゃいけない。けども、やったことが結果じゃないんだね。それによって心が変わったことが、結果なんです。だからそこら辺を間違わないようにしなくちゃいけない。

 だからもし自分が修行をいろいろこなしながら、もし心があんまり変わってなかったとしたら――もちろんそれは時期っていうのはあるから、まだその時期が来てないってこともあるけども――でもそうじゃなくて、ああ、もしかすると自分の何かが足りないのかなと。さっき言った「決意」が足りないのかもしれない。あるいは「対抗治療」が足りないのかもしれない――とかいろいろ考えなきゃいけない。「懺悔」が足りないのかもしれない、とかね。

 だから、それは自分の心にドンと置いておかなきゃいけない。で、その一番のエッセンスとなるのが、ここに書いてある「自我の放棄」と「菩提心」なんですよと。これが一つの基準になると。

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